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雄略天皇解説〜中華冊封体制から距離をとった帝〜

 今回紹介する雄略天皇という人物はですね、わが国日本の第21代天皇で、「倭の五王」の武と比定され、皆様も小中学の歴史教科書でご覧になられたかと思いますが、熊本県の江田船山古墳や、埼玉県稲荷山古墳から出土した、鉄剣に書かれている「ワカタケル」その人です。
 また、大悪天皇・有徳天皇と矛盾する二つの異名で呼ばれる方です。
 まずは、「大悪天皇」のほうから解説しようと思います。
 雄略天皇は、気性の激しい暴君的な所業も多く見られ、天皇位に即くために肉親すら容赦なく殺害し、反抗的な豪族を徹底的に誅伐するなど、自らの権勢のためには苛烈な行いも躊躇せず、独善的で誤って人を処刑することも多かったため、大悪天皇と呼ばれることとなりました。
 こうした雄略天皇の振る舞いを皇后の草香幡梭姫皇女が窘めたという逸話があります。
 猪を射殺せない気弱な舎人を斬り殺そうとした雄略天皇に、皇后が「今猪を食したいからといって部下を斬られますのは狼と何も違いません」と諌めている。まあ、狼を残忍な例えとするのは『後漢書』などの漢籍にも書かれており、話自体が後世の創作とも考えられますが雄略天皇の性格を表した一節といえます。また、武烈天皇紀には「大悪天皇」の語は無いが「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあることから、両者は同一人物ではないかとの説もあります。
 また、なぁなぁになっていた豪族と天皇との上下関係をハッキリさせたかったために、このような苛烈なことを行ったという意見もあります。
 次に、有徳天皇の解説しようと思います。
 葛城山で一言主神と邂逅した雄略が神と共に猟を楽しみ、帰りは来米水まで送られた。その豪胆さに感嘆した百姓達は、口々に「有徳天皇」と讃えたという逸話から、「有徳天皇」と呼ばれました。
 それでは、雄略天皇が実際には何をなされたのか?内政では、宋から織物に携わる職人たちを招いたり、秦氏という渡来人の一族を集めて、養蚕業に携わらせるなどし、国内の産業技術の発展に貢献なされました。
 雄略天皇の素晴らしきは、内政より、軍事・外交にあります。
 朝鮮半島に出兵して、高句麗や新羅と戦ったり、高句麗が日本と友好関係にあった百済を攻め滅ぼすと、翌年に雄略天皇は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させたとされています。
 また、先程、熊本県の江田船山古墳や、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣に「ワカタケル」と書かれていたという旨の事を解説しましたが、それだけではなく、治天下大王と書かれていました。この事からわかることは、次の二つです。
 まず、雄略天皇のときに、南は九州の最南端、東は関東にまで日本の支配下に組み込まれたということであり、言い換えるなら、雄略天皇は、日本国の領土を広げた天皇である、という事です。
 そして、次の二つめが、雄略天皇の一番素晴らしい点です。
 それは、中国の冊封体制から離脱し、自ら天下を治める独自の国家を目指したということになろうかと思います。言い換えるなら、サブタイトルの〜中華冊封体制から距離をとった帝〜になります。
 冒頭で、雄略天皇の事を「倭の五王」の武と比定されると解説しましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか?「倭の五王」とは、当時のチャイナ王朝の宋に冊封つまり、宋の皇帝の子分となり、宋の爵位である「倭国王」に任じられた第16代天皇の仁徳天皇〜第21代雄略天皇までの5人の帝のことであります。
 なぜ5人の帝達は、冊封されたか?当時、日本は、朝鮮半島に勢力圏をもっており、高句麗や、新羅と争っていました。朝鮮半島で一番優位な立場に立つために、冊封され、朝鮮半島での爵位を得ようとしました。
 雄略天皇も初めは冊封されていました。雄略天皇は、ある時、
「わたしの国は,はるか遠いところにあって,宋からいえば海外の国になっています。わたしの父祖たちは,みずからよろい・かぶとに身を固かため,山や川をわたり歩いて,おちついて休息するひまもありませんでした。そのおかげで,東では蝦夷の55か国を平らげ,西では熊襲の66か国をおさえ,さらに海をわたって朝鮮半島の95か国をしたがえました。」
という内容の上表文を送りました。そして雄略天皇は、この上表文で「使持節・都督倭・ 百済・新羅・任那・秦韓,慕韓七国諸軍事,安東大将軍・倭国王」 の位を当時のチャイナ王朝の宋に求めました。しかし、雄略天皇は、これを最後にチャイナ王朝に使いを送り、冊封されることをやめました。
 そして、先程の鉄剣の文字、倭国王が治める天下ではなく、大王が治める天下という意味にもとれる治天下大王です。
 なぜ、冊封されることをやめたか。
 冊封体制はチャイナ王朝の子分国家になるかわりに、莫大な利益を得られるものでした。
 雄略天皇の御心を、かってに推測することは、かなり失礼なこととわかってはいるのですが、おそらく、日本独自の文化を育みたかったのではないのでしょうか?
 兎にも角にも、日本が独立国としての道を歩み始めた最初のきっかけを作ったのが雄略天皇であると言えます。

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