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「争い事や攻撃が嫌い」

私はかなりの平和主義者だと思う。

争うこととか、攻撃がとても嫌いで、穏やかで平穏な中の繊細なコミュニケーションでやりとりできたらどれだけいいかと思う。

でも人間間で、その度合いってだいぶ異なっていて、かなりいい加減だったり、適当であったり、攻撃と思わずに攻撃をしている人であったり、色々なケースがある。

大人になってしまうと、まあそういった人たちとも無理に交流しないといけないこともあって大変だけども、むしろ大人になったから、心の蓋を閉じたまま接することができることもある。

最近、音楽に接する関係の方と話をした。

作詞家だったのだけれども、とても良い雰囲気を持つ方で、ああいう方は他者に何かをおもねたりどうこうしてやろうという意識があまりないのだろうなと思う。何かを作ることに集中していて、それが他者へ向かうことがないから、とても良い感じであるなと思っていた。

四角大輔さんとかもそういう雰囲気だなと思う。彼みたいな人は真の自由を獲得したかに見える。ニュージーランドでの釣りをする日々はどれだけ有意義で美しいかと思うと、なんだか心が落ち着いてくる。

人とのコミュニケーションは、ほとんどがきちんと話して、相手も相手が話終わるまで聴ききって、そこに正当な返答をすることで問題は防げるはずだ。しかし、そこに自分の思いを通したいがあまり、色々なテクニックを使ってくる人がいるために問題が起きる。

私はそういう場面に出くわすたびにひどく卑しく、寂しい感覚を受ける。

一旦はそういったこみゅにけーしょんで手に入れたと思ったものでも、長い目で見れば必ず離れていく。

まあ、その人の人生が終わるまでそれが持てば良いという考えなのかもしれないけど、私は、自分がいなくなったとしてもそう言ったことは関係があると思っている。神を信じているわけではないですかそう思っている。

得とか損という概念があるけども、最近本当に、損得って存在するのかな?と疑問を持ち始めている。

一見得していることもそれは概念で損ではないかと思う時もある。

つまり、事実だけがあって、何かを得たと思っていても、それを得るために失っていることは絶対的に無視できない。それがなんとなく無視されている気がする。

獲得するということは失うことでもあるというのは真実だと思っている。

だから、何を獲得するのか、そしてそれに何を払うのかというのはすごく生きていく上で重要な考え方なのだと思う。

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