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ハンドボールでしか恩返しができない -U-19男子日本代表監督 芳村優太


する人、みる人、支える人、活用する人など…。
様々なフィールドで活躍するハンドボーラーをnoteで紹介していく「シンボルハンドボーラープロジェクト」。

【第1回】
ハンドボール女子日本代表:グレイ クレア フランシス選手

【第2回】
ハンドボール男子日本代表:吉田守一選手

第3回目となる今回は、日本ハンドボール協会ナショナルチームコーチで男子日本代表U-19チーム監督、大同特殊鋼ハンドボール部アナリストの芳村優太さんにお話を伺いました!

《芳村 優太/ Yuta Yoshimura》
1992年12月3日生まれ(30歳)。早稲田大学卒業後、フランスにコーチ留学。帰国後、早稲田大学男子ハンドボール部コーチ、U-20ザンビア代表監督を歴任。現在は男子日本代表アナリスト、U-19男子日本代表監督を務める。

選手から指導者への転換点や、フランス・ザンビアで見つけた新しい価値観。
U-19日本代表監督として大切にしている考えや今後のチャレンジなど…。
日々選手たちを指導し支える、芳村さんのルーツから未来をお届けします。

◇将来の夢は「世界チャンピオン」


――地元と家族について教えてください。

出身は東京都ですが、親の転勤の都合で小学3年生から高校3年生まで愛知県・名古屋市に住んでいました。家族は父親と母親、3つ下の妹がいます。

親の教育みたいなところで言うと、比較的放任主義というか…。よっぽど人の道を外れるようなことなら何か言われると思いますが、特に「あれをやれ、これをやれ」がなくて、自分が興味を持ったことを好きにやらせてもらっていた家庭でしたね。

――小さい頃はどんな性格でしたか?

あまり覚えていないのですが、公園の砂場で柔道をするようなわんぱく少年だったと思います(笑)。身体を動かすのが好きで、学童保育で色々な運動遊びをして楽しんでいました。

特に変わった性格というわけではなく、周りの友達と同じようにポケモンのゲームをしたり、そのへんにいる普通の小学生でした。具体的な将来の夢も特になかった気がするのですが、小学校の卒業文集には「何かの世界チャンピオンになる」と書いていました(笑)。もしかしたら、その時期から「世界」に対して興味があったのかもしれません。

◇選手時代は全国大会優秀選手に


――ハンドボールとの出会いを教えてください。

小学5年生の冬、クラスの友達に便乗して部活動に参加したのが最初の出会いです。当時はハンドボールがどんなスポーツなのかも知りませんでしたし、ハンドボール部は毎年1月しか活動しない特殊な部活動だったので、「それくらいなら…」と軽い気持ちで参加しました。

野球をやっていたので、もともと肩の強さには自信がありました。投げて得点を奪うスポーツだとわかったときには「活躍できるな」と自信満々でしたが…。結果的には全然点が取れなかったんです(笑)。

負けず嫌いな性格も相まって、そのときに感じた悔しさとか「もっと上手くなりたい」という気持ちが、その後もハンドボールを続けていく大きな要因になっている気がしています。

――向上心の強さが窺えますが、中学校・高校での部活動ではどのような経験をしましたか?

中学校で入ったハンドボール部は全国クラスで、日本一を目指していました。入部した当初は、先輩たちが全国大会で3位になるようなチームでした。私が出場した中での最高成績は、JOC(ジュニアオリンピックカップ)で3位になったことです。全国大会で上位に入る経験ができましたが、私自身の努力というより、環境が成長させてくれた面が大きいと思っています。

そもそも名古屋市は全体的に中学校が強いということもありますし、もしほかの県にいたら同じくらい活躍できていたかは正直わかりません。個人の努力ももちろん大切ですが、どんな環境で時間を過ごすかということも、とても大切だと思います。

高校でもそのまま選手を続けて、春の全国選抜大会で準優勝をして、大会優秀選手にも選んでいただきました。そのころが人生のピークでしたね(笑)。


◇将来を見据えた末に指導者の道へ


――現在は指導者として活躍されていますが、指導者の道を志したきっかけを教えてください。

うっすらと指導者を意識するようになったのは中学生のときです。そのときは保健体育の先生として、中学校や高校の部活動でハンドボールの指導をしたいという願望がありました。

高校を卒業してから早稲田大学に入学して、1年生のときは選手としてプレーをしていましたが、2年生のときに将来のことを考えてみたんです。僕は身長が163cmなのですが、この体格で大学4年間続けても活躍するのは厳しいだろうし、その先のJHL(日本ハンドボールリーグ)で戦えるかというと、現実的ではないなと…。

指導者であれば体格は関係ありませんし、努力する限り道がどんどん続いていきます。そう考えた末に、特に大きな葛藤もなく指導者の道へ舵を切ることができました。

――本格的に指導者を目指し始めた大学2年生以降は、どのような活動をされましたか?

3年生からは、早稲田大学男子ハンドボール部の学生コーチとして活動していました。ただ、学生コーチといっても特別な指導をするわけでもなく、正直自分が何をすればいいかわかりませんでしたし、チームメイトも自分に何を要求すればいいのかがわからない状態でした。「学生コーチとは何か」を暗中模索しながら、毎日を過ごしていました。

――「学生コーチとは何か」と問われたら、今の芳村さんならどう答えますか?

定義づけることは正直難しいですね。ただ、今も学生コーチとして活動していたり、興味がある学生には、一人ひとりにやってみたいことがあると思います。そのことを、学生だからこそ持てる視点で全うしてほしいと思います。

私自身の経験ですが、やってみたいとは思ってもやれない環境が多々あると思います。もし学生コーチがいるチームで私が監督をするなら、その学生コーチがやりたいことをやれる環境を作ってあげたいと思います。

◇フランス留学の決め手は「ディフェンスの美しさ」


――大学卒業後の活動について教えてください。

指導者の道へ舵を切ったときから海外を経験することは必須だと思っていたので、コーチ留学をすることに決めました。当時、吉村晃さん(※)がブログでデンマークのハンドボールについて書かれていて、私もデンマークに興味がありました。

※吉村晃 / Akira Yoshimura
デンマークでのコーチ留学後、JHL・豊田合成コーチングスタッフ、男子日本代表スタッフ、男子ジュニア代表監督などを歴任。

ちょうど男子ヨーロッパ選手権がデンマーク開催だったので、2014年に留学の下見も兼ねて現地に行きました。そこでフランスvsセルビアの試合を観戦したのですが…。言葉では言い表せないようなフランス代表のディフェンスの美しさに魅了されて、一気に「フランスで学びたい!」と思うようになりました(笑)。

また、2017年に世界選手権が開催されることが決定していて、2024年のパリオリンピック・パラリンピックの開催も濃厚という状況でした。フランス語やフランスの文化を学んでおけば、自分にとっても日本にとってもプラスになると思って、フランス行きを決めました。

――フランス留学を経て、フランス代表の美しさの理由はわかりましたか?

私は1年2ヶ月しか現地にいなかったですし、フランスの中でもモンペリエという地域でしか過ごしていないので、その分しかわかりません。ただ、日本との違いをあげると、「ハンドボールを哲学する」というか、ハンドボールの根本原則をきっちり定義している国だと思いました。

印象的なエピソードとしては、モンペリエのコーチに「ハンドボールの選手を育てる過程で、選手に求める要素としては何が大切か」という質問をしたことがあります。すると、そのコーチは「理解力だ」と答えました。

私が持っていたフランス代表の印象は、身体の大きい選手がゴリ押しするような、強さが前面に出ているイメージでした。なので、私の問いにもフィジカルに関係する回答が返ってくると思っていましたが、大事なのは「どれだけ選手一人ひとりがハンドボールというスポーツを理解できるか」ということでした。私の中でとても衝撃的な瞬間でした。

写真提供:芳村優太 氏


◇未知の国、ザンビアで指導


――フランスから帰国した後は、どのような活動をされていましたか?

帰国後は早稲田大学の男子ハンドボール部でコーチをしていました。そんな中、2017年の秋に筑波大学ハンドボール部の藤本元監督から、「ザンビアに行ってもらうかもしれないからよろしく!」と突然連絡がありました(笑)。

その瞬間はまったく訳がわかりませんでしたが、とりあえず「わかりました」とだけ伝えました。その後、「日本・ザンビアハンドボール交流プロジェクト」を進めていた田代征児さんとやり取りをさせていただき、プロジェクトの一環として1週間、現地の選手たちへ指導をすることになりました。

  • 【日本・ザンビアハンドボール交流プロジェクト】

――未知の国に行くことへの恐怖心や心配はありましたか?

最初は1週間だけ指導しに行くだけというか、ちょっと知らない国に行く、くらいの気持ちで、特に大きな心配ごとはありませんでした。それよりも、好奇心のほうが大きかったです。「目の前に来た電車はそのとき飛び乗らないと帰ってこない」ではないですが、この機会を逃したら二度とできない経験だなと思いました。

そしてザンビアに渡ったわけですが、最初の1週間目にローカルな場所での食事があたったようで、入院して点滴を打ちました…(笑)。後にU-20男子ザンビア代表の監督を務めることになるのですが、それだけが唯一にして最大の懸念点でした(笑)。

ハンドボールの指導自体はとても充実していました。ザンビアの選手たちはとても素直で、得点を決めたり試合に勝ったときにはアフリカ特有の踊りを始めたり…。純粋に楽しい思い出となっています。

――言葉も文化も違うザンビアの選手とコミュニケーションをする上で、意識したことはありますか?

自分をどうやって表現するかというよりも、「自分がいかにザンビア人になるか」を意識していました。言葉は基本的に英語でしたが、例えば現地のニャンジャ語を会話の中に混ぜてみたりもしました。

どんなコミュニティでも、特に最初は「何をしたら受け入れてもらえるか」を考えて行動に移していくことが、コミュニケーションを取る上で大切だと思います。

――ザンビアでの経験から見つけた新しい価値観や、指導者として学んだことを教えてください。

入院して点滴を打った話をしましたが、ザンビアに行って改めて、日本は非常に恵まれている国だということを感じました。インフラや教育が整った日本で、ハングリー精神を引き出すためにあえて過酷な環境を作る、ということも1つの指導方法だと思います。

ハンドボールに限らず日本は過保護というか、生きていく上で組織が守ってくれる場面が多いと思います。ただ、どうしたって自分の力で生きていかなきゃいけない場面も必ずあります。本当に困るような場面を乗り越えていくためにも、過保護な環境から飛び出してみることは大切な経験だと思いますし、そのような考えも指導を通じて伝えていければと思っています。


写真提供:芳村優太 氏


◇20年先を見据えた日本代表活動


――現在のハンドボール日本代表としての活動を教えてください。

大きく分けて、A代表でのアナリストとU-19男子日本代表の監督、2つの役割があります。A代表のアナリストとしては、ダグル・ジグルドソン監督の要求に応えるために、データの分析などを行っています。

U-19の監督も務めているので、A代表での戦術やハンドボールに対する考えをアンダー世代に繋げていくということは意識しています。カテゴリーをまたいで代表活動に携わっている以上、絶対にやらなくてはいけないことだと強く思っています。

――U-19日本代表監督として、アンダー世代に指導する上で意識していることはありますか?

チームとしてすぐ目の前にある結果を求めていくことはもちろんですが、「未来の日本のために、今このチームが何をできるか」ということは常に考えています。

その世代の上手い選手たちを集めて試合をする、国際大会で良い結果を残していくことだけに焦点を当てても、それが未来に繋がるかは疑問です。日本代表全体を考えて、よりよい方向に進むためにはどうすればいいか、20年先を見据えたときに今どのような指導をするべきかを考えなくてはいけないと思っています。

――日本代表として活動するようになってから変わった意識などはありますか?

自分の日頃の行動一つひとつをより意識するようになりました。見本となる存在というか、常に誰かに見られているという意識が強くなったかと思います。SNSの発信とかは特にですが、自分が発する言葉の、さらにもう一つ先を考えるようになったと思います。

写真提供:芳村優太 氏


◇ハンドボールでしか恩返しができない


――今後の目標やチャレンジしたいことを教えてください。

やはり指導者としての実力をもっともっと身に着けたいと思っています。今はU-19の監督ですが、いずれはA代表の監督もやってみたいですし、JHLチームや海外での指導・コーチングにも興味があります。

同時にアナリストとしての一面もあるので、データサイエンスやプログラミングなどの分野も極めたいです。「指導者でもありアナリストでもある」というか、ハンドボールを題材にして、今までにないような職を作れたらなと思っています。

――ここまでお話を伺っていて、言葉の節々からハンドボールに対する強い情熱を感じています。芳村さんを突き動かすエネルギーの源は何なのでしょうか?

今だから言えますが、実は中学生のときに少し荒れていた時期があったんです。夜、家に帰らなかったりとか…。それでも悪い方向に振り切らずに済んだのは、ハンドボールがあったからです。全国クラスのハンドボール部に所属していたので、夜はしっかり寝ないと練習できないですからね(笑)。

そう考えると、やっぱり今の自分があるのはハンドボールのおかげですし、自分を育ててくれたハンドボールで社会や周囲の人たちに貢献したいと考えています。むしろハンドボールでしか、恩返しはできないと思います。

――これまでの経験を踏まえて、いまハンドボールをしている、これから始める子どもたちに声をかけるとしたら、何を伝えますか?

今も子どもたちに指導する場面がありますが、そこでは「自分の人生は自分で生きろ」ということを、ハンドボールを通じて伝えられるように意識しています。

それぞれ何かしらのやってみたいことがあると思いますが、もし先生や家族に止められても、やりたいと思ったらとことんやること。最後に決断するのは自分自身。周りの人の人生ではなく、自分の人生を生きることが大切だと思っています。

人間、死ぬときはみんな一人だと思います。自分が死ぬときに後悔しないような人生を、子どもたちにも過ごしてほしいなと思っています。

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芳村さんのハンドボール人生、いかがだったでしょうか?
ハンドボールだけに限らず、人生の生き方を改めて考えてみるきっかけになるのではないかと思います。
今後の指導者としての活躍、そして新たな分野でのチャレンジに期待しています。

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次回の記事もお楽しみに!

【シンボルハンドボーラー記事公開予定】
2022年6月中:第4回

取材・文=坂 柊貴