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イギリスの歴史(13)イングランドの名誉革命
こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊
今回は「イギリスの歴史シリーズ」の13回目です。
前回はこちらです ↓
前回までのおさらい😊
【ピューリタン革命】
課税権や国王大権をめぐり王と議会が対立。
王チャールズ1世は処刑され、王政・二院政を廃止し、共和制へ。
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【クロムウェルの軍事独裁】スコットランド・アイルランドを統合
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【王政復古】
王権は復活したが、封建的諸税や議会の同意のない課税はいっさい許されなくなった。
革命初期の長期議会の諸改革もほぼ継承された。
議会はカトリックを警戒し、「審査法」を制定し、要職につくものを国教徒に限定した。
↓
【名誉革命の危機】
新王ジャームズ2世が国王大権を強化し、公然とカトリック化を進めたことが発端となる。
1,王位継承排除危機
名誉革命直前は、どんな雰囲気だったのでしょうか?😊
この頃、王政復古により即位したチャールズ2世の跡継ぎが問題となります。
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王チャールズ2世の弟のヨーク公爵が、王位継承順位で第一位でした。
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しかし、カトリック教徒であるヨーク公爵の王位継承について、
議会で大問題になります。
ここで、イングランド史上最初の政党で、議会とプロテスタント諸派に寛容な「ホイッグ」が形成されます。
これに対し、王とイングランド国教会を重視する「トーリ」という党もできます。
この後イギリス政治に300年以上にわたって続く「二大政党」の初期の状況が、王位継承問題を巡って生まれたのです。
ちなみに、ホイッグがのちの自由党で、トーリがのちの保守党です。
ポイント😊✨
「ホイッグ」:議会とプロテスタント諸派。のちの「自由党」
「トーリ」:王とイングランド国教会を重視。のちの「保守党」
余談ですが、アメリカの「ニューヨーク」はこの「ヨーク公爵」にちなんで名付けられたそうです‼
2,カトリック教徒のジェームズ2世が即位
紆余曲折の末、王の弟のヨーク公爵がジェームズ2世として即位します。
スコットランドでは「カトリック王」に反発し、
前王チャールズ2世の私生児が王位継承権を主張し、
スコットランドを拠点に反乱をおこします。これはモンマスの反乱といいます。
反乱はすぐに鎮圧されますが、王ジェームズ2世はこれを口実に、常備軍を維持続けました。
即位前には「審査法」を遵守すると誓ったジェームズ2世は、
即位後にさっそく(💦)破り、カトリック教徒を要職につけました。
こうして、ジェームズ2世は、議会と対立していきます。
ジェームズ2世が国王大権を強化する中、1688年、王に男子の世継ぎが生まれました。
このままカトリックの王が続くことを恐れた有力者の画策が加速します。
3,名誉革命
議会の有力者は、王ジェームズ2世の長女メアリの夫であるオランダ総督ウィレムと結託します。
ウィレムはイングランド王チャールズ1世の孫でもあります。
クロムウェルに処刑されたチャールズ1世の孫…。
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1688年11月、議会有力者はイングランド軍を掌握し、
ウィレムはオランダ軍を率いて、プロテスタントの擁護者としてイングランドに上陸します。
ジェームズ2世は戦わずに逃亡し、カトリック国であるフランスへ亡命します。
1689年1月、王による招集ではない「仮議会」が開かれます。
オランダ総督ウィレムはウィリアム3世として、妻メアリ2世と、2人の君主として共同統治を行うことが決定されました。
このとき、ジョン・ロックも亡命先からメアリ2世とともにイングランドに帰国します。
ロックの『統治二論』などの政治思想は、名誉革命を理論的に正当化しました。
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1689年4月、ウィリアム3世と妻メアリ2世の戴冠式では、
それまで諸王の宣誓文に盛り込まれていた「イングランド諸王により与えられた法と慣習をイングランド人民に与えることを確認する」という一文が、
「議会の同意により制定された法と、同様の手続きにより定められた慣習に基づき、イングランド人民を統治する」に改められました。
これは、君主が唯一の法の創造者だとするこれまでの考え方を改め、
歴代の諸王が継承してきた「祖法」が王だけの法ではなく、議会と王の法になったことを意味したのです😊
最後まで読んでくださりありがとうございました😊
次回は「「権利章典」と立憲君主制の原則を樹立‼」です。
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