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国籍とはなんだろう

プロローグ

国籍とはなんだろう。
フィリピン人だった僕は、日本人の父から認知された。そして、日本国籍を取得した。
二重国籍を認めないという日本の規則に従い、フィリピン国籍か日本国籍かの選択を迫られ、僕は、将来のことを考え、日本国籍を選択した。だから、てっきり、僕はフィリピン国籍をもう持ってないのだと思っていた。
しかし、父から認知は無効だと裁判を起こされ、僕はその人の子ではなくなった。同時に日本人の子ではなくなったので、僕の日本国籍まで奪われた。
すると、日本の国からは「フィリピン国籍者」だとされ、オーバーステイにされた。
僕はいったい何の罪を犯したというのだろう。

トオルさんからの相談

 2017年12月28日、一人の相談者が事務所を訪れました。JFC(Japanese Filipino Childrenのトオル(仮名)さん、28歳でした。どうしても至急に相談したいことがあるということで、通常なら年明けにアポを入れるところを仕事納めの日に来てもらいました。トオルさんは不安でいっぱいの表情で彼の身に起きたことを語ってくれました。
 トオルさんのフィリピン人の母は日本への出稼ぎ中に妊娠し、トオルさんを出産するためにフィリピンへ帰国し、トオルさんを出産後、フィリピンの家族にトオルさんを預けて、すぐに日本へ戻りました。
 1993年9月、トオルさんの母は日本人男性の小峰(仮名)氏と結婚し、トオルさんは小峰氏から認知されました。その後、トオルさんは準正子として日本国籍を取得して来日をして日本で暮らしていました。
 日本が二重国籍を認めてないことを承知していたトオルさんは22歳になる前に日本国籍を選択しました。
 日本の生活は悲惨でした。父は仕事をせず、母が仕事をして経済的に家族を支えている状況で、父からは暴言暴力が絶えず、毎日怯えながらの生活でした。母はそうした生活にとうとう疲れ果て、2015年に両親は離婚をしました。
 両親の離婚後、小峰氏はトオルさんを相手に認知無効の裁判を起こし、認知無効の判決が下され、2017年12月、トオルさんは小峰氏の戸籍から抹消され、同時に日本国籍を失いました。フィリピン国籍者として、入管へ出頭しなければならないと聞いたが、心配で仕方がないので入管へ行く前に相談したかったとのことでした。
 入管に問い合わせたところ、フィリピン人としてのパスポートを持って入管の調査第三部門に来て欲しいと言われ、トオルさんは年明け早々、入管へ向かいました。「入管へ行きました」という連絡がトオルさんから入り、入管で渡されたという紙が写メで送られてきました。
 その紙は、通常、在留資格がなく、退去強制手続き中の外国籍の人たちが特別在留許可を求める場合に渡される紙でした。入管に提出の必要な書類に☑が入っています。
 つまり、トオルさんは日本国籍を失ったと同時にフィリピン人としての在留資格のないオーバーステイとされ、退去強制手続きに入ったのです。入管の収容施設に収容はせず、仮放免は出すが、在留資格が欲しければ、入管の要求する書類を提出しろ、ということです。
 JFCネットワークは約30年間活動をしてきて、このようなケースに遭遇したのは初めてのことでした。初めはトオルさんの身に起きていることが信じられなくて、「おかしいでしょ、何かが間違っている」という思いに駆られました。

トオルさんの身に起こったこと


 トオルさんが何の罪を犯したのでしょう。トオルさんは小峰氏が実の父親だと思って生きてきました。父は、自分の意思で自分の子どもだと認知したにも関わらず、母と離婚すると、「君は僕の息子じゃなかった」と認知無効の裁判を起こしてきました。二重国籍を認めない日本の国から日本かフィリピンかどちらかの国籍を選ぶことを迫られ、トオルさんは日本国籍の選択を宣言しました。日本人として、日本で生きていく予定だったからです。
 しかし、父からの認知が無効となると同時に、それまで持っていた日本国籍を日本の国からはく奪されました。そして、もう失っていたのかと思っていたフィリピン国籍者だと言われ、入管に行けば「退去強制」の対象となり、オーバーステイとなったことを告げられました。日本国籍もなく、フィリピン人としての在留資格もないことから、それまで働いていた職場で働き続けることができなくなりました。途端に生活に困窮し、それまで暮らしていたアパートを引き払い、おばの世話にならざるを得なくなりました。トオルさんは心のバランスを壊し、ストレスで円形脱毛症になりました。食欲もなくなり夜もよく眠れない日が続きました。
 入管からは、本当の父親から認知される以外、トオルさんが日本で正規の在留資格を得て生活していくことは難しいと言われました。トオルさんは本当の父は誰なのかと母を何度も問い詰めました。しかし、母ははじめ、トオルさんの問いに答えることはしませんでした。トオルさんが自爆自棄になり自殺でもしかねない様子を見て、日本にいるおばがトオルさんの本当の父親のことを話してくれました。

本当の父からの認知


 トオルさんが実の父親のことを母に問いただすと、その人が本当の父だと認めました。トオルさんは母に入管から言われたことを伝え、その自分の本当の父親の所に連れて行って欲しいと懇願しました。
 母はトオルさんのことを避け、協力的ではありませんでした。しかし、次第にトオルさんの身に起きたことは自分の責任でもあるとも思えるようになったのか、トオルさんの願いを聞き入れるようになりました。トオルさんが日本国籍を失い、在留資格も失って2年がすでに経過していました。
 ある日、トオルさんと母は本当の父の会社を訪れ、父が出て来るのを2人で待ちました。幸い、トオルさんの実の父の南田(仮名)氏が会社から出てくるところを捕まえることができ、3人で喫茶店に入って事情を話しました。しかし、トオルさんを自分の子どもだと認めたものの南田氏には他の家族がいるので認知はどうしてもできない、とのことでした。
 2020年5月、トオルさんは弁護士に依頼をして、南田氏を相手に認知請求を申し立てました。同年7月に第1回の調停期日が入りました。南田氏は代理人の弁護士をつけ、トオルさんを自分の子どもだと認めるが認知はできないと主張し、DNA鑑定も拒否しました。9月、第2回目の調停期日がありました。しかし、南田氏は意向を変えず認知はしない、鑑定はしない、との主張だったため、調停を取り下げ訴訟を提起しました。
 2020年12月、第1回目の弁論期日がありました。南田氏は調停では自分の子どもだと認めたにも関わらず、訴訟になると態度を一変、自分の子どもではないと主張しました。しかし、DNA鑑定の実施は拒否しました。その後、2021年2月、3月、4月と弁論期日が入りましたが、南田氏の主張は相変わらずでした。そのため、トオルさんの母と南田氏の尋問を実施することとなりました。
 2021年7月、裁判所で南田氏とトオルさんの母の尋問が行われました。トオルさんの母はつらい過去を丁寧に語りました。トオルさんの父である南田氏との出会い、彼と結婚する予定であったこと、しかし、小峰氏から執拗につきまとわれ、数か月監禁されていたこと、その間、南田氏と連絡を取ることもできず、南田氏を裏切る形になりとてもつらかったこと、好きでもない小峰氏と結婚しないと自由になれないことが分かり泣く泣く結婚を承諾し、せめてトオルのためにと自分の子どもとして認知してもらったこと、小峰氏との結婚生活は悲惨で暴力で自由を奪われ奴隷のような状況だったこと、しかし、トオルさんのためと思い耐えてきた結婚生活にも耐えきれず離婚を決心したこと、そして、母は「トオルは南田の子です」と裁判官の前で主張しました。
 2021年8月、トオルさんを南田氏の子だと認める判決が下されました。南田氏はその判決を不服として控訴しました。
 2022年2月、控訴審の期日がありました。南田氏はトオルさんを自分の子ではないと主張し、DNA鑑定の実施は拒否しました。
 2022年3月、控訴審の判決が下された。南田氏の控訴を棄却するとの判決でした。2週間後、判決は確定し、トオルさんは南田氏の子だと認められました。
 2022年6月、トオルさんは認知の記載された南田氏の戸籍を持参して入管へ行く予定です。

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