『ズッコケ文化祭事件』


記憶にある限り、一番古くに読んだ小説が『ズッコケ文化祭事件』だ。ズッコケ三人組シリーズは『ズッコケ文化祭事件』『花のズッコケ児童会長』などの小学校で実際に起こりうる範囲内でのリアルものと、『ズッコケ時間漂流記』『ズッコケ宇宙大旅行』といったSF展開するスーパーものと大きく2種類に分けられる。小学生の頃、どちらかと言えば前者を好んでいた。


20年以上ぶりに再読した。3学期の始業式のホームルームにモーちゃんが遅刻してくるシーンから始まる。それをからかうハチベエは当然のように宿題を忘れてきていて、遅刻もせず宿題もばっちりやり、2人のケンカを取り持たないハカセという構図により、つかみの段階ですぐ3人のキャラクターがわかる。どのシリーズもだいたい同じように導入していて、続きものも一部を除いてないから、どの巻から読んでもいいような親切設計になっている。クラスでもっとも美人な女の子の名前が「荒井陽子」であることを、30過ぎてから思い出すとは思わなかった。


文化祭の出し物を決めるためにああでもない、こうでもないと侃侃諤諤と話し合いを繰り広げる生徒たちを教室の隅から見守るのが、タクワンこと宅和先生である。この宅和先生が今回の主役と言っていい。勤続30年を迎えた、ちょっと発育のいい小六より身長が低く、生徒から人気があるわけでない華のない人だが、経験豊富で保護者からの信頼は篤い。


文化祭では劇をやることになったのだが、ハチベエの実家である八百屋の得意先に、昔、児童文学の賞を獲った作家の新谷敬三がいた。一度賞を獲ったきりで次が続かず、後進にも追い抜かれた。次作の構想に頭をうならせながら独居しているこの男に、ハチベエたちは劇のシナリオを依頼することになった。

ところが、出来上がったシナリオは、作家の空想の中で生きている「きれいで純粋な児童ら」に向けた無味無臭の出来栄えだった。これを面白いと感じない子どもたちは、好き放題に本を脚色し、「仲良し三兄弟が魔王をやっつける話」から「高校生三姉妹が悪徳不動産屋を成敗する話」に改変してしまう。悪ノリで消化器をぶちまけるシーンまで挟み込み、宅和先生もさすがにまずいと咎めたが、どうしても迫力を出すために消化器を使いたいと子どもたちに懇願されて折れてしまう。自主性を優先する先生の人柄が出ている。


本番に招待された新谷敬三は、まるっきり改変された劇を見てショックを受け、黙って退席してしまう。文化祭の後日、謝罪のために宅和先生は新谷の自宅を訪れる。すでにアルコールが入った新谷は、宅和先生にも杯を強要する。はじめは拒否していたが、新谷に「子どもの自主性を重んじること、すなわち大人の責任放棄で、暴力や人間同士の信頼の破壊すら肯定している」と極論をぶつけられたところで、テーブルに置かれたお湯割りを飲み干し、反論する。今回の劇は、子どもたちが話し合いの末、知恵を出し合って完成された作品である。子どもたちは大人の力でなく、自らの内なる生きる力により日々成長していて、その力が間違った方向に向かわないよう介添するのが私の仕事であり、今回は、新谷の顔よりも子どもたちを優先させたと。


そして、この作品のハイライトである、宅和先生が、新谷に「あんたはおくびょうですな」と言い放つ場面がくる。ここから、宅和先生と新谷の「子ども観」をめぐる大舌戦が始まる。むろん、童話作家・新谷敬三の抱える「きれいで純粋な子どもら」という虚像と実像とのギャップは、作者・那須正幹の抱えるそれを投影させたものなのだろう。ズッコケ三人組シリーズのメイン読者層は小学生中〜高学年ごろの児童で、教師と児童作家が酔っ払って口論する内容を汲み取るには早すぎるのかもしれないが、ただ、このやり取りが当時対象の世代だった私に深く印象付けられて、「面白く感じた」のは事実であり、「必要以上に滅菌・漂白された創作物は意味をなさない」という価値観をもたらした。ただし、過剰であってはならないけれど、配慮は大人の仕事・役割として当然必要だ。


今読み直してみると、新谷だって賞を獲って以降もどかしい日々を過ごしていて、いざ筆を取ってみれば作品を任侠物にまるっきり改変させられていたのだから、たとえ文化祭の児童劇とはいえ悔しさ著しかっただろう。作品だって新谷が産んだ子どもだ。


文化祭を成功させ、卒業式を控えた三人組と、作家としてひと皮向けた新谷の新たな旅立ちを予感させる締め方も、みずみずしい希望を持たせてくれる。よい作品なので、皆さんも是非読んでみてください。


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