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No.57)僕(しもべ)よ。わたしは最後を語る、|神様からの個人預言メッセージ2022/7/10


 2022.7.10 に聞いた(主のメッセージです)

※これはイエス・キリストの信仰を持った者の預言(神のメッセージを預かった言葉)の霊によって受け取ったメッセージの記録となります,

我が僕(しもべ)たちよ。
今日もあなたを愛しています。
と主は言われます。

わたしのミニストリーをお話ししていきましょう。

僕(しもべ)の話をしていきます。
あなたがたは、こころを合わせ各々背中を向けて話していきなさい。

わたしの心を掴むものは幸いです。

わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。 この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。(Ⅱコリント6:1~10)

わたしは、一つ一つの事に背を向けています。(罪を背負った・傷を受けた・負ったという受難の意味)
背中とはわたしが打たれた傷のことをさします。

 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。(マタイ27:26)

覚悟はありますか?

 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(マルコ8:34)

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