【小論文】主観的なる客観的な美について

 こんにち、世界では様々な芸術作品が生まれている。それは映画であったり、小説であったり、はたまた「芸術」と題される絵画作品であったりする。主義主張・思想を伝える媒体こそ異なるものの、内包する「美しさ」は共通するものである。
 映画を例に出せば、新海誠監督の作品は、しばしば「映像美」という言葉で形容される。小説を例に出せば、小川洋子氏の文章は「美しい」とされる。芥川賞や本屋大賞といった名立たる文学賞が、氏の文章表現力を裏付けている。
 僕らが美しいと感じたとき、どういった感情が呼び起こされるだろうか。感動か、圧倒か、畏敬か嫉妬か、はたまた全てか。生憎、僕ら全員に共通する答えは用意されていない。世俗的に言い表すと、感情の赴くまま、である。
 ところで、感情はしばしば主体的なものであると語られる。僕らの美的感覚は個体によって違うらしいし、芸大に受かるための勉強は(技術や着眼点こそ必要なものの)、一般的に大学と呼ばれる教育機関と比べれば、少しばかり抽象的なものになる。
 では、「美しい」という概念は、果たして主観的な概念であろうか。この文章では、主観的とされる美の実態について考察していきたい。
 
 僕が思いついたヒラメキは、たいてい古代の哲学者に先を越されている。プラトンの唱えたイデア論も、その一つである。
 イデアについて、ざっくばらんに解説する。たとえばリンゴがあるとしよう。リンゴにはいくつかの種類があり、たとえば紅玉、世界一、つがる、それにふじがある。姿形は様々で、緑や黄色のものまである。大きさも多種多様。同じ品種でも違いがある。
 ところが、僕らが「リンゴ」と言われたときに想像するのは、だいたい赤いリンゴである。その形も、尻を上下反転させたようなものを想像する。この赤いリンゴこそが、他ならぬ、リンゴのイデアである。
 このように、僕らが想像するイデアという概念が、変わらない本質として存在するという考え方こそ、プラトンのいうイデア論なのである。
 今回は物質であるリンゴを例に挙げたが、他にも善や幸福をイデアに当てはめることができる。とあらば、美にもイデアが存在するのではないだろうか。
 仮に美のイデアが存在した場合、そのイデアは、僕ら全員が真っ先に想像する「美」である。この場合の「美」は変わらない本質であり、美は客観的であるといえる。
 さて、美のイデアとは、一体なんであろうか。リンゴという形あるものと違い、美とは概念に他ならない。そうとあらば、僕らは何を、どのように想起すべきであろうか。この問いに対しても、プラトンは答えを用意していた。
 まず、イデアは僕らが住む世界の上位存在である。簡単に説明すると、ゲームの世界にいるキャラクターが、僕らプレイヤーを観測できないのと同じである。僕らがゲーム世界のキャラで、イデアが僕らを観測する。そう考えてほしい。
 次に、下位世界に生きる僕らは、外の世界にいるイデアを見ることができない。とはいっても、これは肉眼の話である。イデアを観測できるのは、今は人間の肉体に宿っているとされる、かつてイデアの世界に住んでいた概念――魂である。かの映画俳優ブルース・リーの台詞に「考えるな、感じろ」というものがある。まんまそれだ。
 僕らが魂を震わせる――美しいと感じるとき、かつてイデアの世界に住んでいた魂が、美のイデアを思い返す。それこそ、僕らが美のイデアを想起する方法なのだという。
 ここからは僕の考察になるが、きっと始発駅は一緒だったのだろう。最初はJR新宿駅を出発していた僕らだが、知識の浅く、不完全な人間だから、いつしか小田急線やら京王線やら、はたまた田園都市線やらに乗り違えてしまった。それが「感動」「圧倒」「畏敬」「嫉妬」の感情であろう。
 違えたのは表現だけである。僕ら全員、元々は、美のイデア――同じものを想起していた。
 いつか、美のイデアを定義する新しい言葉が生まれれば、感動や嫉妬といった形容は消え失せて、新しい言葉に取って代わるのかもしれない。
 
 ここまで、プラトンのイデア論を引用して考えてきた。しかし、「イデアの世界」という概念の不明瞭さは拭えない。そこで今度は、別の概念を持ち出して考えていきたい。
 唯物論と唯心論という考え方がある。簡単に説明すると、物質が実存するには、肉体が先か精神が先か、の違いである、体調が悪いから気分が落ち込むのか、気分が落ち込むから体調が悪くなるか、といえば、分かりやすいだろうか。
 余談だが、僕は無神論者であり、精神というものを信じていない。心と呼ばれるものは宗教の概念であり、僕を僕たらしめるものは脳と脊髄だと考えている。
 ところが、唯物論を採用すると、先程の考察――イデア論は無意味なものになる。魂は存在せず、感情の違いは脳の違いだと判断されるからである。繁殖を繰り返すたびに遺伝子が進化・退化して、美に対する意識が変化するならば、そもそもイデアは存在しない。とあらば、美は主観的なものになってしまう。
 そこで唯心論を採用してみる。精神から肉体が成るという考え方である。本質から実存が生まれる、という本質主義的な言い換えもできる(と、僕は考えている)。
 唯心論を採用した場合、先程のイデア論がトートロジーに成り代わる。魂は存在し、それによって肉体が生まれる。しかし肉体の方が後に生まれた不完全なものであるから、イデアから派生して別の表現が用いられるようになる。
 ところで、僕は無神論者といった。それは精神に対する異論であるとともに、唯物論と唯心論を対比させるためでもある。とどのつまり、唯心論は宗教と密接に結びついているのである。
 僕らが生まれるより、ずっとずっと前の、それこそ縄文時代の人々の話になる。彼ら彼女らは、人間が必ず亡くなる生物だとは思いもしなかった。狩りでの負傷や、病気で死亡することが大多数だったからである。
 そこで昔の人々は、眠ることも気絶することも、はたまた死ぬことさえも、同じものとして扱った。これらの行為は、魂が外に出ているだけだと考えたのである。彼ら彼女らの死とは、魂が戻ってこないことを指した。それが常識だった。
 結論から言ってしまえば、唯心論は宗教の起源である。だからこそ、唯物論と唯心論は、単なる肉体と精神の対比ではなく、その宗教観とも対照的に語られるのである。
 唯物論における美は、そもそも存在しないといえる。とあらば、唯物論におけるイデアが存在しないという論理も、一応は成り立っている。
 
 ここまで、イデア論と唯物論・唯心論を用いて、美について考察してきた。唯心論を採用すれば、美は客観的なものといえる。唯物論を採用すれば、美はそもそも存在しない。
 この文章を書いたあとでも、僕の無神論は変わることはないだろうが、だからといって「美しい」という表現を消失したくはない。
 ヴォルフ学派の人々は、世界(神は認識していたものの、現実に創造しなかったものを指す)を現実世界に投影する人々を、芸術家と呼んだ。独創性とは、すなわち神の創造未遂を覗き込む能力、とも定義づけた。
 もしかしたら、神は人間を司る上位存在ではなく、人間に含有される精神なのかもしれない。その精神――概念を持ち合わせた人々が、芸術家を名乗り、こんにちも芸術作品を創作し続けるのであろう。
 一人の創作者たる僕も、心の中に神を飼っていいのかもしれない。かの神に与えるエサとは、つまり「美しさ」を摂取して、美のイデアを想起することなのかもしれない。

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