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【批評】映画版ルックバック


はじめに

 漫画と映画の違いは、読者および観客が物語の速度を制御できるか否かにある。自分に合った速度で、しかも何度も巻き戻せる漫画とは対照的に、映画は常に一方通行で(上映後にもう一度見るというメタにでも踏み込まない限り)、二度と振り返ることはできない。
 映画は過去に戻れない媒体である。その映画において、顧みる物語『ルックバック』がいかに作用したか、それに追随する物語性とは何であったかを考えていきたい。
※この文章は、『ルックバック』のネタバレに大きく踏み込んでいく。原作・映画ともに知らない方々には、ブラウザバックしていただこう。





本論1:序盤の感想と、本論2に続く「暗号」の提示

 ネタバレに配慮して、ここでは『少年ジャンプ+』に公開されている無料部分のみの感想を述べる。

 原作――漫画版『ルックバック』が公開されたのは、2021年7月19日。計143ページからなる読み切りである。小学校の学年新聞で4コマ漫画を連載する藤野と、隣のクラスにいる不登校の京本。彼女ら2人を中心として、物語が展開される。
 2人が初めて顔を合わせたのは卒業式であるが、それ以前からお互いに名前を知っている状態であった。特に京本は藤野の熱心なファンであり、自身の背中の服にサインを要求する一面まであった。その一方で、藤野も京本に執着している。京本よりも絵を上手に描くために、勉強や遊びを放棄してまで漫画にこだわった。ファンというよりかは、むしろ妬み嫉みに近い。
 ファンと嫉妬という対照的な感情を抱えている2人だが、それ以上に、筆力と画力の対比が機能している。
 藤野は筆が早く、学校に通いながら、学年新聞の4コマを毎週載せていた。対して京本は不登校であり、毎週は載せられない。ところが画力は一線を画すものであり、京本の絵と比較すると、藤野の絵が「フツー」に見えるほどである。
 ここで、「普通」という言葉を、その芸術媒体に携わっていない状態のことと定義する。漫画を例に挙げると、漫画を描いたことがない人間が普通で、漫画を描いたことがある人間が普通ではないことになる。決して否定的な意味で使うわけではないことを了承していただきたい。
 まず、普通の読者(同級生)に、筆力を評価することはできない。絵を描いた経験が少ないためである。しかし、画力ならば話が違う。現実の風景という比較対象が存在するので、藤野の絵と京本の絵のどちらが写実的かを判断すればいい。子供らしい純粋な感性で。
 だが、普通ではない読者(京本)は、筆力を評価できる。絵を描き上げる困難さを理解しているからである。藤野の漫画を推移して鑑賞できる人物でもあり、藤野が本格的に絵の練習を始めた時期(5年生頃)から上手くなっていった、と適切な分析をした。努力を評価している、という言い回しもできる。
 普通の読者にも評価できる画力と、普通ではないからこそ評価できる筆力。私を含め、創作に携わる方々には、これに通ずる評価軸を知っているのではないだろうか。
 たとえば、小説における表現力と文章力。美しい文章を書く力――表現力は、己の美的感覚によって評価すればいい。だが、客観的に見て伝わりやすい文章を書く力――文章力は、ある程度文学に精通する、つまり読みやすい読みにくいの比較対象が頭にある状態でないと、判断することが難しい。
『ルックバック』は、画力と筆力という、創作者だけが理解できる評価軸――暗号を忍び込ませている。京本は「漫画」それ自体ではなく、「絵」「話」「筆力」といった仔細な項目から、藤野の漫画を評価したのである。
 様々な項目から藤野の漫画を愛した京本と、画力ただ一つで京本を格付けしてしまった同級生、そして藤野。小学校の段階に限れば、京本の方が、漫画に対して思慮深い人物であったと考えられる。
 そういった細かい描写――暗号を、出会いのシーンという大事な局面に織り交ぜてくるのだから、『ルックバック』は末恐ろしい作品なのである。
 そして、筆力に優れた藤野と、画力に優れた京本は、漫画の賞に応募する漫画を、力を合わせて描いていくことになる。>>>To be continued


本論2:漫画を映画に「昇華」するにあたって

 漫画として公開された『ルックバック』は、漫画だからこそ表現できる物語だと考えていた。コマ割りや台詞は、漫画として描写するために試行錯誤を重ねられた上でのものに違いない。そもそも題材は漫画である。漫画という媒体で生まれた物語を、別の媒体に差し替えるのは野暮であろう。
 と、これが鑑賞前の意見である。
 映画として公開された『ルックバック』は、点と点を結ぶように、どこまでも原作でいようと努める映画であった。近年の映画にありがちな改変はなく(尺の事情がなかったとも考えられるが)、上記でも語った「暗号」も見事に演出してくれた。その点に関しては漫画を超えたともいえる。
 暗号というものは、本来、頭を使わないと解けない。ただし、それは前提知識がない場合の話である。
 たとえばx+3=5という方程式があるとする。方程式を知っていれば、すぐにx=2と導き出せるであろう。だが方程式を知らなければ、xを理解するところから始めなければならない。
 大事なのは「すぐに」導き出せることである。引っかかってはいけない。悩みに悩んで、物語に支障を及ぼしてはいけないのである。理想をいえば、分からないという状態さえなくしてしまいたい。つまり「導き出せる」か「認識しない」の二択に絞りたい。
 映画版『ルックバック』は、その暗号がさりげなく提示される。2人が出会うシーンでも、画力と筆力の話題は実にわずか。それよりも簡単な「画力が高い京本」と「画力が高くない藤野(厳密には違うが、一旦こう定義する)」という対比が用意されているのである。
 誰にでもわかる「画力」の対比構造で物語を進行させながらも、創作に携わる人間には「画力」「筆力」の別解が用意されている。前者を理解してしまえば、後者は認識せずとも話が分かる。されど後者は漫画に携わる者ならば導き出せるはずである。
 この暗号を、あえてルックバックできない媒体――映画で披露するというのが、とても趣がある。創作に人生を捧げてきた人々への祝福にも思える。そういった意味で、「その点に関しては漫画を超えた」という表現を利用させてもらった。
 漫画を補完しながらも、映画という表現媒体が意識された、極めて巧みな映画化であった。
 あと作画の動き方が好きだ。物語とか京本の生き方とかもう全部好きだ。最初の夜に漫画描くシーンを自己投影して泣いた。


おわりに

 グダグダ書いてきたけど、最初から最後まで泣きっぱなしだったし、上映後にドデカ拍手してしまったので、みんなも観てくれよ。

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