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【エッセイ】スーパーマン

 私の後ろには、よく人が並ぶ。ちなみにスーパーの話である。
 
 大学進学をきっかけに、私は親元を離れて一人暮らしを始めた。しかし、突然見知らぬ土地に放り出されたものだから、右も左も猫も杓子も分からない。小田急線ってなんだよ。唐突に投げられた、膨大な情報。二項定理で展開しながら処理する。
 その結果、三つのことを覚えた。猫の見分け方、ご飯の炊き方、それと空腹の苦しみである。
 まさに、猫も杓子も空腹も。
 要するに、冷蔵庫が空になった途端、私はワンルームの真ん中で屍になるらしいのだ。最近、家の鍵を閉める習慣が付いたため、セルフ密室殺人を演出できる。もっとも、容疑者と被害者は同一人物だが。
 幸運なことに、家の近くにはスーパーがあった。魚や野菜、肉も並べられてある。
「見ろ、少年。お前が飢えるには悪運が足りない。たんと太れ」
 諭吉が喋りかけてきた。どうやら、私は三途の川で溺れたらしい。向こう岸に渡って仏をワルツを踊るには、まだまだ現代社会は恵まれすぎている。日本に生まれてよかった。
 それから、私はスーパーマンになった。ヒーローではない。スーパーに通う男、という意味だ。生憎だが、ヒーローという肩書きは、私には小さすぎる。夢はビックに。猫もビックリ。
 ここで伏線を回収しよう。猫の見分け方は、顔がビックかビック以外かだ。余談だが、猫の学名は「フェリス・シルヴェストリス・カトゥス」だ。五賢帝の「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」を彷彿とさせる。
 ある日のことだ。古文のように「今は昔」と語り始めたいという願望が心の片隅に存在していたものの、スーパーに通い始めてから一ヶ月しか経っていない。泣く泣く諦める。一度は拾い上げた願望を、埃を掃除する要領で隅に追いやった。
 話を戻そう(私はよく話が脱線する。小田急線だけに)。私はスーパーにいた。安っぽいBGMや、店員の話し声が聞こえる。少年が勢いよくカートにぶつかってきた。頭を下げるのは私の方だ。なぜなら、私が聡明で謙虚な人間だから。少年は無邪気に笑い、母親らしき女性と去っていく。
 おもしれー町。
 一ヶ月も住めば、喧騒や混沌にも慣れたものである。小田急線の定期券も購入した。住めば都。ここが私のアナザースカイ。
 黒烏龍茶を二本と、あぐー豚(沖縄の豚らしい)の肉の小間切れをカゴに入れる。「ポテトチップスうすしお」に目を向けてはならない。奴らは小銭を食い荒らす。「堅あげポテト」は尚更だ。下手すれば英世を撃ち抜かれる。
 レジ待ちの列は長い。五、六、七人はいる。両端には、ポテトとハッピーターン。学食の券売機のように、学生専用レジを用意してほしい。なぜなら、レジの待ち時間に芋とお菓子に挟まれて、窒息してしまうだろうから。
(ここから先の文章は、息を止めて読むといい。私がどれほど苦しんだか分かるだろう)
 視線を感じる。人じゃない。ポテトだ。お前もか、ハッピーターン。右手を伸ばせば届く距離。私はお前を食べたい。お前は私に買われたい。両想い、まさに異類婚姻譚(伝承文学で習ったから、使いたかった言葉だ)。
 だが、すまない。頭を下げる私。地面を見ながら、一歩ずつ、ちびちびと進む。
 ポテト。お前を買うと破産する。もやし生活は嫌だ。ご飯抜きはもっと嫌。どうか私を許してほしい。健康で文化的な最低限度の生活に、お前たちは要らないのだよ。
 顔を上げる。前には、一、二、三人。同時に、ようやく陳列棚の森から抜け出したことに気付いた。(大きく息を吸って、それからは普通の呼吸を続けてほしい)。
 完全勝利である。私は、生活に必要な食材だけを手に取った男。
 まさにフードロス。私はクソボウズ、特段可愛げのないタイプ。
 ふと後ろを振り返ると、私の列だけ異様に人が多い。見ると、女性、女性、男性挟んで、女性。私は背中で語る男だが、その日はパーカーを着ていたので、あまり語れないはずである。にもかかわらず、私の後ろに沢山の人。ドラクエじゃないんだから。
 似たようなことがあったな、と思う。私が列に並ぶと、よく後ろに人が並ぶ。決して自意識過剰ではない、と信じたい。ただ事実なのである。他の列が二、三人だとすると、私の列は五人いるのだ。はて、この差はなんぞや。
 聡明な私だから、考えることに関しては定評がある。いや、虚勢を張った。定評はない。とはいえ、論理的思考は好きだ。それこそ、二項定理で展開するとか(伏線回収である)。
 答えはすぐに出た。考える暇すらなかったと言ってもいい。私はただ一度、自分のカゴの中身を見た。
 黒烏龍茶二つと、豚肉の小間切れ。それだけ。
 まさか彼らは、最速でスーパーから出るために、時間がかからなそうな人の列に並んでいたというのか。
「おやおやおやおや」心の中の探偵が笑う。「これで事件は解決か。実に単純だったね」
 探偵といわれて想像するのが、江戸川コナンか、金田一少年か、城塚翡翠か、それはどうでもいい(強いて言えば城塚翡翠であってほしい)。私は、赤の他人から、「時間がかからなそうな人」と認識されたのだ。「うっひょう、人から認識されて嬉しいなあ」とは一概に思えない。なぜなら、ずるいからだ。私も「時間がかからないそうな人を認識する人」を観測してやろうではないか。
 さりげない感じで、後ろの人のカゴを覗く(イメージは古畑任三郎)。すると、驚くべきことが発覚した。
 後ろの人は、大量の肉や野菜に加えて、ポテトを購入しようとしていたのだ。
 私が無駄だと思っていたポテトを。あなたは。
 それから、私は二度と振り返らなかった。私の順番が来たからだ。底が見えるカゴを、店員さんに渡す。電子音が三度響いて、三桁の金額を提示された。
「空っぽが埋まらないこと、全部ばれてたらどうしよう」
 きゅうくらりんの歌詞を回想する。もしも後ろの人が、本当に私の推測通り、時間がかからなそうな人の列に並ぶよう、考えていたらとしたら。
 おもしれー町。
 会計を終えて、お茶と肉をリュックに詰め込む。ピクニック気分。このような気持ちになるのならば駄菓子でも買えばよかったのだろうか。いや、買ったところで、買わなかったらと後悔するのだろう。私のことは私が一番よく分かっている。
 それにしても、些細なことでも、日常には様々な思惑が跋扈しているらしい。この土地のことを、もっと知りたいと思う。大学から自宅までは快速急行だから、明日は各駅停車で帰ろうと思った。
 話も帰り道も脱線しようじゃないか。小田急線だけに。

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