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haveではなくbeでの存在証明

皆さん、お久しぶりです。
zoéです。
約2ヶ月間のお休みを経て、本日よりnoteを再開しました。といっても、その間も少しずつ書いてはいたのですが…。

たまたまこの記事を読んでくださった皆さん、再開に際して少しだけ私にお付き合いいただけたらと思います。よろしくお願いします。

これまでも定期的にnoteの休止期間を設けていましたが、今回はnoteの向き合い方についてよく考えた期間でもありました。

まず私はnoteのアプリ自体をスマホから消しました。あれば通知などを気にしてしまうからです。わざとめんどくさい方法でアクセスして、距離を置きながら過ごしていました。

あとは規則正しい生活を心がけ、7〜8時間の睡眠を確保することを目標にしました。そのためには無駄な時間を使っている暇などなくて(笑)。私の最近の生活の中で最も無駄な時間だったあるSNSアプリも消去しました。
空いた時間で本を読んだり、ラジオを聞いたり、ヨガをしたりとスマホ自体から距離を置くように努めました。
特に読書は心の支えになって、気になる本を可能な限り図書館で借りて読みました。

たくさん読んだ中でこの本は特に興味深く、何日もかけてじっくり読みました。
この本を読みながら、私がなぜ時々発作のようにnoteで苦しくなるかがわかるような章がありました。

わたしたちは自分自身裸のまま何もない自分では価値がないと思っているからこそ、なんでもない自分ではなくて、「○○大学出身のわたし」だとか「素敵なパートナーがいるわたし」といったかたちで、価値のある人間になるための様々な努力を四方八方におこなってしまいます。そして、時には「どのように生きたいか」ということよりも「どのような人間に見えるか」、「うらやましいと思われる、恵まれた人間に見えるか」ということに、非常に大きい時間を割いてしまうことさえあります。

阿比留久美.『孤独と居場所の社会学-なんでもない”わたし”で生きるには-”.大和書房,2022,p.62.

なにかができること、なにかを持っている(have)ことによってではなく、何者でもない自分のままで、「be」に基づいた自己紹介によって存在証明ができれば、そんなに緊張にさらされながら生きていかなくてもよくなりそうです。

阿比留久美.『孤独と居場所の社会学-なんでもない”わたし”で生きるには-”.大和書房,2022,p.63.

私は高い知性や学力、素敵な家族や高価なもの、お金を一つも持っていません。それなのに自分を何かを持っている人間に見せようとしてnoteの中で必死に頑張っていました。
さらに元来お人好しなのもあり、人の「持っている」話を真正面から見たり聞いたりすることで、次第に疲弊していったのだと思います。これは相手が悪いのではなく、疲弊するまで耳を傾けたり見ていた私が悪いのですが…。

ご承知の通り私は何も持っていない人間だけれど、自分はこんな人、つまりhaveでなくbeで語っていけば、noteもそんなに辛くないかなと思っています。

一方でそこまでして自分の存在を証明したいのかとも考えました。苦しくなるのになぜ続けるかと。
しかしたとえ誰かがこのnoteを素通りしたとしても、自分のことは少しでもnoteに記したいという強い思いがあったのです。

話は変わりますが、この数ヶ月時間をかけてヨガをしています。
それは朝だったり夜寝る前だったり。
ヨガは身体的な効能はもちろん、精神面では『今ここ』に集中でき、歪んだ自分軸をまっすぐに整える効果があります。ヨガのおかげでだいぶ軸が真っ直ぐに整ってきました。

これからは記事を書くことにもあまり気負わず、書きたい時に書いて投稿していこうと思います。もしご興味があったらまたお付き合いくだされば幸いです。

zoé




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