見出し画像

感動と癒しは受け手しだい

先日ネットニュースでこの記事を読みました。

町田樹さん。
お名前は存じ上げていますが、現在は大学で助教授をされているのですね。小さい頃はフィギュアスケートが大好きでよくみていたものの(伊藤みどりさん大好き)、町田さんが活躍されていた頃は全然見なくなっていました。

競技者としての先を見据え、大学院に進み、現在は大学でスポーツメディア論などを教えられているそうです。

非常に良い記事だったのでご興味のある方はぜひ一度読んでみてください。

この記事を読みながら、スポーツとは全然関係ないんですけど、私も昔嫌悪感を抱くフレーズがあったことを思い出していました。

それは『癒してあげたい』というフレーズです。これは本当に同業者からよく聞いていたフレーズでした。

昔私は医療や介護の現場で働くエステティシャンをしていました。

まだその職に就く前の実習先でのこと。

エステというと基本綺麗になったり、癒されたりするイメージがありますよね。私はこの時まだ未熟者で、心のどこかに癒してあげたいという気持ちがあったのかもしれません。

とある病院で実習をした時、担当の看護師さんが「気持ちよくなるよ、リラックスできるよ!」と声をかけてくれ、実習を受け入れてくださった100才の患者さんがいました。
エステを始めた時は朗らかで良かったのですが、しだいにその顔がくもり、目をギュッと閉じて、拝みながら「どうか堪忍してください!」と言われました。

看護師さんはどうして?やってもらおうよ!と何度も本人に声をかけてくれましたが、その方にとって私の施術がとても不快であったのだろうと理解し、それ以上は行いませんでした。

この時私は自分の心の中に「病院の中でエステを受けられるんだよ、癒されるに決まっている。」という浅はかで傲慢な気持ちがあったのだろうとものすごく反省しました。
同僚の人たちの『癒してあげたい』というフレーズに吐き気がするほど嫌悪感を抱いていたのに、実は私がその気持ちを持っていた。その心を患者さんは見抜いていたのですね。


本来、感動するか否かは受け手に委ねられているものです。Aさんは感動しても、Bさんは感動しないことだって普通にあり得ます。それはフィギュアでも同じです。『感動を与える』という表現は、あたかもアスリートがベストなパフォーマンスを発揮すれば、誰もが喜ぶと一方的に『感動』を押しつけている印象を受けます。スポーツは無批判に『良いもの』とされ、皆が感動するだろうと思い込むことの傲慢さみたいなものを、現役時代から感じていました。

この記事にもあるように感動する、癒されたと感じるか否かは受け手に委ねられているもの。

私はこの100才の患者さんの出来事以来、エステティックを受けたら癒される、リラックスできるという思い込みを一切捨てました。

サロンなどで行われるエステとは違い、病院や施設でのエステでは、施術をすればするほど、自分が無力で何もできないことに気付かされます。

私は終末期の方を多く担当してきましたが、これから永遠の旅立ちをされる方たちのそばで、自分に何ができるかと考えた時、ただ自分のままで時間を共有することだけでした。
その特別な時間の中で、ご家族にも言えなかった大切なお話を最期にしてくださったことは生涯の宝物です。

誰かを癒してあげたいという気持ちは今もなく、自分は無力な人間であると思っています。


そして今、自分自身が心身ともにダメージが大きく、私がそういった類のエステを受ける側に立っているのですが…。
自分が今患者さん側の立場にいるからこそわかることもあります。

必要なのは静かに寄り添ってくれることだと。

感動も癒しも受け取る人しだい。
与えるものではなく、自然と感じるものなのだと思います。


【関連記事】

この記事が参加している募集

仕事について話そう

サポートしてくださるとめちゃくちゃ嬉しいです!!