言葉が通じるだけまだいい。
いつも何か新しいこもを始めたりするとき思うことがある。
「言葉が通じるだけまだマシ。」
フランスで言葉があんまり分かってない状態でエステ学校に行ったり、研修生として働いていたときに比べればこんなこと何でもない、といつも思っている。
エステ学校に行っている時、フランス語で解剖学や数学の授業を受けていた。学んでいることはすでに知っていること(特に解剖生理は)で簡単な問題ばかりなんだけど、言葉が難しかった。あの時の大変さに比べれば、日本語で分からないことを質問できる環境は恵まれている。
初めてパリに留学した時、
Tu comprends ce que je dis?
と、会話の途中でよーく尋ねられた。
Ouiとは答えていたものの、本当は全然わかってなかった笑
それを聞かれることも怖かった。はい、はいと言い続けていたら、「zoéはouiしか言わない」と言われ、ホームステイ先が同じ男の子と大喧嘩をした。でも彼のいう通りだった。図星をつかれたから余計に腹がたったのだ。
考えてみれば、フランス語がわからない人にちゃんと理解できているかを確認してくれるのは、優しさであり当然のことだと思う。
この一件以来、
わからないことははっきりとわからないと言う
わからないことを人に尋ねることは恥ずかしいことではない
わからないことをわからないままにしない
もう一回説明してと言う勇気を持つ
ということを学んだ。
フランスにいた時は、これらを実行しても誰も嫌な顔ひとつしなかったし、みんな懇切丁寧に何度も教えてくれた。自分から意思表示をしないと何も動かないあの国で、私は「NON」と言える勇気をもらった。
あの時に比べれば記憶力が落ちているので、今も新しいことを始めた時は、何度も確認したり質問したりするようにしている。
そしてわからないことをわからないままにしておくことに対して、以前より気をつけていると思う。
何より日本語という最も得意な言葉が使える環境にあるのだ。
しかし、なんで私はNOと言えなかったのだろう。これは私が書いたようなシチュエーションに限らず、全般にNOというのが苦手だったような気がする。(断るとか反対意見を言うとか…)
これは日本の文化や日本人の気質だからで片付けていいのだろうか?
「さっきも説明したでしょ!!」と言われるのが怖かったのかなと思う。(大学病院時代先輩によく言われた)
ノーということが失礼や迷惑をかけることにつながると私は思っていたのかもしれない。(そういえば昔、NOと言える日本という本があったよね)
私が好きなKevin’s English RoomというTikTokから。直接的なNOではないけど、アメリカと日本の違いが分かりやすい。
私はフランスでの経験を通して分からないことにNONと言えるようになったし、いの一番に手を上げて発言とか質問をしてしまう。周りの人にしてみたらウザい存在だと思う…。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥
日本にはいい諺があるじゃないか。
ましてや自分の国で、母国語でなんでも尋ねることができるのだから!
と、私はいつも思ってしまう。
言葉が通じるって本当に素晴らしい環境なんだよな。
自分の経験と今置かれている状況から、いつもそんなことを考えている。
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