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多数決という洗脳
批判し、文句を言う人も多いのに、なぜか選ばれ続ける人たち。
長期政権の前に横たわる「安定」は、別の人々に国を任せる未知なる可能性よりは確実に見えてしまうのだろうか。
友達に指摘されて初めて、「未知なる可能性に懸ける」という選択肢に目を開かれた。
やったことがないぶん、知識や経験は経験者のそれより劣るかもしれない。
けれどもトライアンドエラーを繰り返しながら、よりよく成長してポジティブな変化を起こしてくれるかもしれない。
少なくともこれまでと同じやり方にしがみついて、どんどん悪くなっていくより良いんじゃないか。
その通りだと思った。
幼い頃から接する「多数決」のことを思い出した。
AかBか。どちらか良いと思う方を選んでください。
そう言われて、2択か3択のどれかに挙手する。
話し合いにほとんど必ずついてくるから、日本人は多数決に慣れている気がする。
そして「良いと思った方を選ぶ」という概念にも。
これはある種の洗脳と言っても良いかもしれない。無意識に身に着けた考えに気づくのは難しく、気づいた時には目から鱗が落ちたような気持ちになるものだ。
では、「良いと思った方」がない時はどうすればいいのだろう?
これは誰も教えてくれない。
だから、「白紙で出す」とか「そもそも参加しない」とかという状況が発生するのではないだろうか。
良いと思った方がない時を、僕はこう考える。
「少なくとも、こっちは絶対にダメだ」と思う方へ行かないように逆張りをする機会。
「未知なる可能性」に懸けて、これまでとは違った選択をする機会。
つまり「どちらも良くないと思うけど」という前提に立った時、「とりあえず安定していそう」という考え方に安住しないということだ。
これは人生における挑戦に似ている。
進学校に在籍しながら大学に行かないという選択肢を取った僕は、まさに未知なる可能性に飛び込んだ。
それはポジティブな側面も持っていながら「大学に行くのは違う気がする」という、消去法的な理由もはらんでいた動機を持った選択。
卒業した先に何が待っているのかなんてまるで分かっていなかったけれど、6年が経った今でも僕は生きているし、当時拙い想像力で「こんな感じになるのかな」と思った以上に楽しい生き方ができている。
むしろ「とりあえず安定した進路だから」「みんなそうするから」という理由で進学を選んでいたら、どこかで挫折し、多大なる劣等感や心身の傷を抱えていた可能性が高い。今以上の重いものを。
難しく見えるだけで、同じなのではないだろうか。
未知なる可能性は、思ったほど怖くないかもしれない。
良いと思える団体、応援したいグループがいるのは素晴らしいことだと思う。
同時にそこまで情熱を傾けられるグループが見つけられない人も、「今のままはイヤだ」と言う権利がある。言わなければ変わらないことがある。
だからまずは「とりあえず安定」を取りたくなる気持ちに気づける人でありたいと思う。
ゆるやかな衰退は、何を経ても衰退に変わりないと思うから。
そして僕は滅びたくないから。
めげずに「NO」を伝え続け、ポジティブな道を模索していく。
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