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「どちらもあり」「両方もあり」「全部あり」

 先日、他の方の投稿で、今、目の前にある美しいものは、ただ見とれていればいい。今そこにある美しさにはどんな言葉も敵わない。無理に言葉にしなくていいという言葉を目にした。

https://note.com/sachiko861224/n/n5a6f10df2859

 このnoteでも、別のところでやっている音声配信でも、初めはあれも言いたい、これも伝えたいといろいろ言葉を重ねる時期を過ぎて、何だか自分の言っていることが「上から目線」「お説教くさい」ような気がしてきて、目の前にあることをただしゃべるだけでいいのではとやってみると、今度は何だか表面を撫でているだけで終わっている気がしていた時期に、この言葉は響いた。

 その場で反射的に言葉にしようとしなくていい。むしろ自分の中で咀嚼してから、自分の見た何かを表現することが作品になる。そうか、その場の反射だけで言葉を繋ぎ、なまじ少し器用にそれができてしまうから、誰かに褒められたりして、それで満足してしまうから深まらないのだと思った。

 そう、無理して言葉にせず、ただ見とれていればいい。いや、私の場合は反射的に出てくる言葉をあえて封印し、より深く考えて咀嚼してから文章や音声にするくらいでちょうどよいとさえ思ったのだ。

 そんな思いの中、先日の朝、起きて窓辺をふと見たら、数日ぶりに見た美しい朝焼け。しかも日が昇る直前で色も光も刻々と変わる。

 やっぱり今、誰かに伝えたかった。「きれいだよ、ねえ、見て!見て!」と子供のように。
窓を開けて、冷たい空気を吸いながらこの空気ごと聞いてくれる誰かに届くようにと、音声配信の収録ボタンを押していた。

 話したことは朝のあいさつ、刻々と変わる朝焼けの空がとてもきれいなこと、いい一日でありますようにという短くて、そのままの拙い言葉。しかも声は寝起きだし、興奮気味でいつもより早口!

 こんな配信ばかりでは聞いてくれる人もこの人の配信はつまらないと思うのではないかなと思いながら、その後昼間は仕事をして、聞いてくれる人などいないだろうと思いながら開けた配信のページには❤️マークだけでなく、暖かいコメントが3件も!

 中には「目を閉じて聞いていたら、ジェルーシャさんの前にある空の移り変わりが自分の目の前にも現れてくるような気がした」という、私が本当に伝えたかった「この美しさを誰かと共有したい」という思いをそのまま受け取ってくださった本当に嬉しいコメントもあった。

 それでいいのだと言われた気がした。どっちもありなんだよ。どっちが優れているとか劣っているとかもなしでねと。

 今目の前にある美しい風景をその場で「見惚れるままにしておいて、後で表現する」のもありだし、やっぱり今この空気と一緒に誰かに伝えたいと思って発信するのもどちらもありなんじゃないか。

 前者は「作品を作る」イメージ。後者は「自分」というものを通して今そこにあるものをできるだけ丸ごと感じてもらおうとするとでもいうべきか。

 それはどっちもありだし、両方やることだってあり。

 もっと言えば表面的には「何もしない」のもあり。見たもの、美しいと感じた心の感覚も、明確に意識化しなくても自分の体の血肉に残っているはずだから、次に表現する何かには全く無関係に見えても何かがきっと入っていると信じて次の一歩を踏み出すもよし。

 そう。「全部あり」。そこに自分の体、存在への本当の意味での信頼があれば、それはやみくもな破壊や他者への攻撃には結びつかない。

 解は一つではない。そう思えることで、世界は広がっていく気がする。

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