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「身体の制約」があることの意味は?

このところ考えていたことに繋がる記事。


 視聴覚だけでない「固有感覚」(重さとか抵抗感など)を共有することで、体験を共有できること。そのことによって人生で体験できることが増えるというもの。

 病気などで外出できないといった方には素晴らしい技術なのかもしれない。

 ただ、自分の体の声を聞くことを突き詰めようとしてきた身には複雑な思いがあります。

 別の新聞記事で、「テクノロジーの力によって場所や身体の制約から解放される未来」という言葉がありました。
(リンク記事のような研究をしている方がいるというのもその新聞記事から知ったのですが)

 身体は制約でもあるかもしれないけれど、実在の身体が一つであること、その体にはいろいろな制約や限界があることにはもっと大事な意味があるのではないか。

 まだまとまらないのですが、これからも考えていきたいです。

※ 画像は「身体」で検索して表示されたものの中からDaisuke Sawaiさんの画像を使わせていただきました。ありがとうございます。

 実はフォトギャラリーのデータがなかなか開かず、たまたま一番上にあった別の方のデータがずっと出なかったのでどんな画像だろう、タップしたら出るかなとやってみたら、ポーンと幼児が公園の遊歩道のような場所で座り込んでいる写真が候補写真になって、案外これもいいかもと思ったのですが、やっぱりこのテーマにはこちらかなと思って使いました。

 人の体からいろいろな線が広がっている感じがこの文章のテーマにピッタリかなと思いました。

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