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日記というもの(日記)

 以下、書きながら適宜音楽を挟みます。

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 たまに日記を書きます、と言うと、(私は書きません)と(まめですね)の視線が返ってくる。もうまるで別種の人間、みたいな目つき。でも別にこっちだって、律儀に毎日書いている訳では無いし、一般的にイメージされる日記ではないものを書いている。ろくに真面目に書かないし、まめでもない。そちらと同じですよ、と言おうと思ったら、その隙に向こうは「日記を書かない私」のエピソードを引きずり出していて、「日記なんて最後に書いたの夏休みの宿題ですよ笑」とつまらない話にスライドされる。日記という単語から、「最後に日記を書いたのは学生の夏休みの頃である」という文章を引っ張ってくるその動き自体が十分「日記」なんだけどな、と思いつつ。

〈ドッツが解散したあと、同じチームが運営して出来たシューゲイザーアイドルのRAYが、ドッツの曲をカバーしている。RAYは出来るだけ、長続きして欲しい。〉

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 帰省の帰りの飛行機は満席で、しかも三人席の真ん中という一番窮屈な席に当たってしまった。機内に入って中腹まで進んでいって、自分の席を見ると、既に両側に客が座っていた。すいません、と割り込んで座る。
 その時点で、両側の人はイヤホンで音楽を聴いていた(二人ともワイヤレスイヤホンだった)。それはとても有難いと思いながら私は慌ててイヤホン(有線の……)を取り出して耳につけた。そしてとりあえずランダム再生にして、両耳に宇多田ヒカル「Beautiful World」が流れ始めた。そして曲が「ぬるい涙が頬を伝う」の部分に差し掛かったあたりで、ふと、両側の人の耳に意識が向いた。
 今、この三人が、同時に、同じ曲を再生していたら面白いな、と思った。

 自分が数学者だったら、その確率を求めることが出来るかもしれないと思った。ものすごい暗算で。好奇心に追いつけなくなって、たまらずメモ帳を開いて、急いで計算するかもしれない。

 両側の人はどちらも若かった。三人が同じ曲を、なんてほぼ不可能だということは分かっている上での想像だが、Beautiful Worldから、例えばウタ「新時代」に移れば、可能性はほんの少し上がりそうな気がする。三人が同時に同じ発想に至って、全員が寄り添ってヒットチャートを狙えば、ありえない話ではなくなる。
 と想像しているうちに、ランダム再生はMacdonald Duck Éclair「clarion」に移り、死んでも二人とかぶらない曲になってしまった……と思いながら目を瞑った。

〈この世代のこの傾向の曲は、聞いているだけで胃もたれしてくるが、どうにも嫌いになれない。楽しそう、というのが伝播して、こちらも「楽しそう」になってくる。〉

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 この想像は、些細でどうでもいいことのように思えて、意外に大事なものだと思う。

 そこに居合わせた人間が、同時に同じことを考えることの、気持ち悪いくらいの凄さ。
 平和、というのは、そういうことだと思う。濃淡はあるにしても、全員が少しずつ、平和な状態のことについて考えていなければならない。地球という乗り物に居合わせた私たちが、同時に。

 そう考えると、平和はほど遠く不可能なもののように思える。両隣の聞いている音楽が一致するだけでも果てしないのに、飛行機の乗客全員が、地球上の全員が、となると。
 でも、ヒットチャートみたいに、平和を考えることが流行ってくれたら。奇跡的に起こりうるんじゃないかと思ったりする。

〈最初の「互いの宇宙を」の後のテレッテッテッテテーの部分を聞くだけで、宇宙コンビニの人だと分かる。JYOCHOは宇宙コンビニのギタリスト・中川大二朗が解散後に作ったバンド。変わらず良い曲が多く、ずっと追っています。〉

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 日記のいいところは、自分が発想した些細なことを、考え直しながら書くことによって、それがどんどん膨らんだり別のものに繋がったりするところだと思う。書き終わった頃には、自分はこんなにも大きなことを考えていたのかーと良い気持ちになる(正確には、大きなことの種になるものを考えていたに過ぎないけど)。

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 飛行機に乗るたび、私は必死に、(ここは広い空の中……あと数時間で着く最高の旅……)と自己暗示をかけるようにしている。そうでもしなければ、「密閉された空間に閉じ込められている」という状況を思い出してしまう。
 こんなに広い空を、窓一枚挟んで間近に見ているのに、飛行機の中は信じられないくらいに窮屈な空間になっている。(ハイクラスの席はもっと快適なのかもしれない……)
 何をどう叫んでも、助けて貰えない。助けて、の声は飛行機の外には届かない。脱出したくなっても、何も無い状態で外に出たら落下して即死してしまう。
 もちろんこちらが望んで、お金を出して乗っているわけだが、途中から、(こいつらに誘拐された……)みたいな気持ちになってくる。そういうときに機長さんの声を聞いたりCAさんを見たりすると、仕事としてここに乗っている人がいるんだから……と思って、少しは気が楽になる。

 輪をかけて、コロナの影響でろくに喋ってはいけない場になっているので、ほぼ無音で、暑すぎる暖房が回っていた。この疑心暗鬼で濁った空気に包まれて、上手に空を移動させられている……外の空気が吸いたい……と思ってくる。

 梓崎優の傑作短編「砂漠を走る船の道」は、広大な砂漠の中心で殺人事件が発生するが、砂漠があまりにも広すぎるが故に、密室と同じような状況になるという面白い反転が起きている。
 同じように、空だって、こんなに広いけど、だからこそ、密室みたいなもので……。(林泰広「見えない精霊」を思い出しもする)

 閉所恐怖症の人は絶対飛行機無理だろうな……空って、一番の閉所だもんな……と思って次第に苦しくなってきたところで、斜め後ろに座っていた幼い子どもが、大声を上げて泣き始めた。良かった、あなたが泣いていなかったら私が泣いていたかもしれない……と思いながら、もう少しで着くからねーと念力を送って、そのまま眠った。

〈今までで解散して一番悲しかったのは間違いなくsora tob sakanaだった。過去一番応援していたアイドルで、解散後の今でさえ、もう実体のないこのグループを応援している。「踊り子たち」が一番の名曲だと思う。この「夜間飛行」は、(YouTubeに上がっているが、)ライブハウスで歌っていたときの迫力が凄かった。歌詞「少し怖い/だけど 目を開けて」のあとの爆音が、本当に空にいるみたいな気持ちにさせてくれた。〉

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 私にとって、日記というものは、人に読ませるものとして存在している。小学四年のときのイカれた担任が、私たちに毎日日記を書かせ、それに''採点''したあの頃から、もう日記は他者に面白がられるもの、という思考が拭えなくなっている。(あの教師のことは、今でも鮮明に恨んでいる。)

 自分が自分に対して書く文章、というものの恥ずかしさに、私自身が耐えられない。自分が書いて、自分だけが読む、という行為を、何故か恥ずかしいものと思ってしまう。小六のときタイムカプセルに未来の自分への手紙を入れましょうと言われた時も、苦痛で仕方なかった。

 書くなら、誰かに読まれて欲しい、と思う。これは、自分のことを認めて欲しいという欲求の話ではない。誰にも読まれないなら、初めから私は書かない。心の中で思って終わり。
 わざわざ書いて文字にするのなら、それは必ず誰かに向けて書くことになる。(あくまでも私は。)そして、わざわざ書き、わざわざ読んでもらうんだから、できる限り満足してもらいたいと思う。ひとつかふたつくらいは、なんか面白い文章読んだかも、みたいな感覚を得た上で、元の生活に戻っていって欲しい。
 だから、厳しいかもしれないと思うけど、日記だからって、本当にあったことだけをただただ書いている文章のことを、私は嫌っている。それは、外に出すものでは無いだろう、と思う。自分に書いた文章なんでしょ、と。

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 でも、日記というものは、それだけで面白い、とも思う。読まれることを全く想定していない雑な文章だとしても。
 自分とは全く違う人生を歩んでいる人の、日々、その思考回路、を想像するだけで面白い。私がなんとなく綺麗だと思って空を撮るのと、パイロットの人がなんとなく綺麗だと思って空を撮るのとでは、何かが同じで、何かが異なっているはずである。(パイロットとしての仕事の全てが、私にとっては「面白い」ことであるのはもちろんのことで。全く違うことはまず面白くて、ほとんど同じことは差異が浮き出て面白くて。)
 極端に言えば、''読まれることを全く意識していない''こと自体が、私の日記の書き方と異なっていて、面白いと思う。

〈オーストラリアのオルタナバンドClosure In Moscowの曲を、YMCKがリミックスした作品。YMCKを小学校の頃から追っかけていて、この作品も見つけた。この曲は最終部分(歌詞が終わったあと)で面白い展開を見せる。これは完全に「聞かれることを意識していない」の演出であり、下手な日記みたいだなあと思う。〉

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 文学館に行って、文豪同士の往復書簡が飾られているのを見ると、少し吐き気がする。日記はもっとする。これが初出しの文豪の日記ですと嬉々として持ち上げている人も、それを嬉々として見に行く人も、どうかしていると思う。こうやって隠していた内々のことを解剖して見せびらかす/見に行くことが趣味の人間がいる以上、ろくな文章は書けない。そういう点からも、読者としての他者を想定していないと日記は書けない、と思ってしまう。

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 飛行機が終わると、私はすぐ新幹線に乗り換えて、また二時間ほど揺られた。年末年始の乗り物は窮屈で生きている気がしない。でも一番大変なのはここで働いている人だから……と思うことでやり遂げる。働きだしてから、私は急激にあらゆるものに「ここで働いている人」を意識するようになった。
 みんな、働いている……。だから私も頑張ろう、とは思わない。みんな苦しんでいる、かわいそうに、と思う。そしてこれを絶対に次の世代に知られてはいけない、と思う。私たちがこんなに苦しんで働いていることを、全く無視して、児童や学生には暮らしていて欲しい。

 そんなことを思うようになったことは、成長なのか、衰退なのかは分からない。帰省したとき、まだ小学生の妹は、働いたらお金が貰えてそれで好きな物を買えるんだから、働くことが羨ましいと私に言っていた。そんな簡単じゃないよ、とその場では言い返したが、そんな簡単なことなのかもしれない。
 仕事と報酬。労働と生活。境界をクリアにすればとてもはっきりしていてやりやすい。でも、境界がはっきりしたことなんて、ここ数年無い。

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 日記というものは、どこで終わるか、が肝心になってくる。何月何日、の形式で書けば、その日あったことを書き尽くせば終わる。そうでない場合は、終えどきが微妙に難しい。
 基本的に私は、冒頭で触れた内容を最後でまた持ってきて、うまいこと繋げて、一連の文章を読んだ感を演出するようにしている。それをやりすぎていて、日記を「書いた」ことが露骨に出てしまってつまらない思いをさせているのではないか(読者に)と思い始めているところである。

 この日記の終わり方を全く思いつかない。
「だからこそ、そんなあなたにも、日記を書いて欲しい。他の誰でもないあなたの、日記が読みたい。」みたいな、薄っぺらい感じで終えようかなと思って書き始めたが、別に実際のところみんなの日記が読みたいわけではない(この人の日記が読みたいという人と、別にこの人の日記は読まなくていい、という人がいる)。
 それに今の心調(体調の心バージョン、今咄嗟に命名した)的に、他人の日記を読む余裕は無い。しかも、日記というツールがそもそも向いていない(動画にした方がいい人もいれば、絵に描いた方がいい人もいるだろうから……)場合があることも考えると、みんなに日記を! というメッセージがいかにペラいかが分かってくる……。

 そしてこうなってくると、全く日記を終える文章が用意できず、ぐだぐだになってくる。
 それを予想して、音楽を挟んでいたので、助かった。最後に適切な音楽を入れて終えることにする。次から書く日記は、もう少し気合いを入れて面白いものを書きたい。

〈''最後''といえば何故かこの曲だと思っている。ものすごく最後感がある。大学4年の秋冬、心がかなり滅入っていた時期に、テレビを砂嵐にしてこの曲を聴いて一人で泣くという、かなり危ないことをしていた。凄く助けられた曲。school food punishmentも好きなバンドです。解散後も、山崎(ベース)・蓮尾(キーボード)がハイスイノナサの照井順政(先述のsora tob sakanaをプロデュースしていた)と合流してできたsiraph、内村(ボーカル)がやっているバンドla la larksを追いかけています。
 好きになったとき既にそのバンドは解散済みということが多くて、それに慣れすぎて、自分が好きになるようなバンドはもう既に解散しているものだ、と思い込んでしまっています。だからたまに良いなーとおもって調べて今も活動中と出てくるとびっくりします。むしろ、解散しといてくれ、とまで思います。(解散済みのバンドが好きで好きになるバンドに解散しててくれと思う的な短歌をどこかで絶対出したはずなんですがどこに出したか忘れました。)「解散済みのバンド」みたいな雰囲気で文章を書きたいなと思っています。がんばります。〉

20230109
 

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