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そのときどきのメモ(日記)

 蓚酸が体液を酸性化してしまうので、たけのこを毎日食べたい とかだと、アルカリ性のわかめと一緒に煮たりして、中性にするのがよい。

 一年前くらいに、室井綽・岡村はた『竹とささ その生態と利用』(保育社、昭和46年)を読んだときの、自分が書いていたメモ。たけのこを毎日食べたい場合のすすめが載っていて、確かにそういう人もいるかもな、と適当に思った後、自分もそういう人になる可能性は0ではないのだから と思ってメモした記憶がある。


 このように、そのときどきでメモしたことが、何の整理もされないままメモ帳の中に埋まっている。別にそのまま埋まっていてもいいものばかりではあるが、たまに取りだしてみると、そのときの自分の温度が分かって面白い。
 自分にとっては、メモしようとしたことよりも、メモされた対象よりも、メモによって取り戻せる自分のその時の状態が、一番面白い。だから敢えて、無造作にメモしては、放置している。そのときどきで、書きたいように。


「虫の居所が悪い」という表現がきもちわるいのは、逆に機嫌が良かった場合の「虫の居所が良い」を意識してしまうことで、体内にいる虫が笑顔で暮らしているところを想像してしまうから

 2022年11月のツイートの下書き。確かにニッコニコの虫がいたら気持ち悪い。体内の虫が笑っているとき、きっとその体の方の主も笑っているに違いない。
 寄生虫と宿主を意識するとき、いつも〈お気に入りのタオルの繊維がほどけだす 寄生虫と宿主の実情〉(仲井澪)という短歌を思いだす。奇妙な結びつきが「実情」でうまく言い表せていて、ひとめ見たときから素晴らしい歌だと思っている。


Elle est aimée de tout le monde
彼女はみんなに愛されている
 受動態のde 継続的/par 一時的

 tout le monde の意味を毎回忘れてしまう時期のフランス語の勉強メモ。de と par の区別まで書いているのは、「みんなに愛されている」のが一時的じゃなくて良かったね と例文に対して思ったからだと思う。


 ちょっと読みながら想像したのは、帯に書かれている「言葉とのあらたな信頼を切り結ぶ、待望の新詩集」の部分。たしかに、作者は、言葉と「あらたな信頼を切り結」んでいるとは思う。でもそれはかなり……危うい睦まじさを感じた。
 ここで言葉は、どこに位置しているんだろう……(作者と言葉)と読者、のように私は感じた。言葉は、柏木の方にばかり寄っていて、私の方に迫ってくるものはなかった。この詩集を通して、読者と言葉の間には、どんな信頼が生まれただろう。どんな信頼が生まれた方が良かったんだろう。
 作者と言葉の信頼関係が、そのまま、わたしたち読者と言葉に憑依するような形……(作者がそうしたように、読んだ瞬間、読者も(作者の)言葉と「あらたな信頼を切り結ぶ」ことができたら)。
 今回は単に、見せられている、と思ったので、私は、こちらが憑依されるような、こちらも参加''させられる''ような、切迫した言葉が欲しいんだなと改めて思った。柏木の問題というよりは、自分自身の好みの問題なのかも。吉田の方は、こっちが黙って見てたら怒られそうで、柏木の方は、黙って見てられる感じ。

 柏木麻里『蜜の根のひびくかぎりに』(思潮社、2008)を読んだときのメモ。当時、けっこう期待して読んでしまって、期待ほどではなかったのがすごくがっかりで、批判的な意見をたらたらと書いていた。「吉田」は、私が好きな別の詩人(吉田加南子)のことで、書きぶりが吉田に似ていて、なおかつ下回った、という感触をそのまま書いている。
 他人に見せる気は無いからここまで書いているのに、この直後に、 でもいいところもあって、「うまれる/の 根に/蜜が衰えている」「あちらがわ から/やわらかく吸われている/根」のページが続いているのはとても良かった。 と書いてあるのは、自分の''絶対フォローも入れる精神''が出ていて良かった。


「クライエント中心主義」
一致しており、純粋で、統合されている/無条件の肯定的関心/共感的理解

 Rogers,C.によって創始された、来談者を中心とした、非指示的な心理療法のひとつ。(本によって言い方は変わっているが、)来談者に対してセラピストが取るべき態度をこの三つとしている。
 これを読んだとき、「無条件の肯定的関心(配慮)」がやたら目について離れなかった。それは簡単なようで難しいことだ……と思う。別にこれは、心理療法としてのみでなく、日常生活上、人と接するときは大事にしないとな……と思う。目の前の人を人として成り立たせるための最低限のルールとして。
 気を抜くとすぐ忘れてしまうから、これはわりと目がいく場所にメモしている。''無条件の''、''肯定的''、''関心''。


 街にでかいスーパーが隣接。でも片方ばかり売れてる。それは宗教が関与している方のスーパー。ポイントとか。

 夢のメモより。円天? 宗教が絡んでいる夢をちらほら見る。そのどれもが大体、カルトが行き過ぎている。


 数年前の写真。生クリームを作りたいと思い立って、量とかは考えずにとりあえず作った。作り終わってから、そういえばかけるものを用意していなかったと思って、とりあえずあったバナナを置き、全部いってしまえ と全部かけたときの写真。思い立ったが吉日。
 千と千尋の神隠しの前半にこんなシーンがあったような気がする。

 人生の暇つぶしとしてゲームをしているのに、ゲームの中に人生みたいなサブクエストが多すぎる 作中作みたいになる

 いつ書いたか分からないメモ。''作中作''が適切に使えている。

レア・パーソン になりたい
→リサ・ラーソンみたいだな

 分かる。


ミトコン風ドリア

 分かる。


 今日寡黙で優しい上司Kと、外に放置されていた木の角材を運んでいたとき、隙間に秋の蜂が数匹眠っているのが見えた瞬間、Kさんが大声で「ロン!!!」と角材をバチンと前に倒して蜂をぶち殺していて、爆笑した

 蜂には非常に申し訳ないが…… このときばかりは爆笑した。本人は四暗刻と言っていた。


 NARUTOの最終巻付近で、まだナルトが16とか17歳だと知ったとき

「仕事が楽になる感覚」というタイトルのメモより。嘘すぎるだろ、というのと、そんな歳であんな世界を背負うことをさせられているのに比べたら、自分なんてあまりに楽すぎる、と思って、働くことが楽になる。


 高齢ドライバーの暴走→免許返納→しかし交通網が終わっている地方 が詰将棋みたいに思いつく

 この詰将棋、どうしたものか……。


 刻々と人生が減っていっているのに、うたた寝したりぼーっとしたり、広告を見たり、体感はスローな時間を過ごしている、このズレ感が、生を無駄遣いしている感じがして良い。(新幹線でトランプする、みたいな、外が早いのに中はゆっくりみたいな。)

「ループ」というタイトルでエッセイを書こうとして中途にしていたものの一部。
 せっかく与えられたもの、を、わざと有効に使わないときの、「実はこれが一番有効な使い方だ」と思ってしまう無敵感ほど、気持ちいいものもない。
 夏休みの宿題は、ぎりぎりまでしないことが正当だったり。引換券を引き換えずに取っておいたり。眠たいのに寝ないで起きていたり。
 上手に生きようとするなら、上手に生きようとしないことだ と最近は思いはじめている。上手く生きちゃったら、とんとん拍子で死ぬことになる。


 こちらが悪くないのに怒られて詰められているとき、それでも対抗して、ここが間違っていると思いますと返すと、向こうはやっと理解して、「確かにそうか、じゃあそこを訂正して、それで……」と会話を進めようとする。
 先に謝ってからじゃないか? と思いつつ、この人は謝ることができないタイプだろうからこちらが折れるか……と黙っていると、さっき謎に詰められたことが無かったことみたいになって、次の話に移る。向こうは怒ったことを忘れていて、こっちは、怒られたことを覚えている。

 今年のM-1の準々決勝の男性ブランコのネタで、似たようなシーンがあった。
 ピザ屋の設定で、ピザを頼んだら店員が余計な話ばっかりしてピザを焦がしてしまう、そこで店員役の平井(ボケ)が頭を下げて、「チャンスをください!」を連呼する。客の浦井(ツッコミ)は、少し間をあけたあと、「(次はちゃんと)お願いしますよ〜」と返す。それからぼそっと呟くように、「一回くらい謝って欲しかったな まず謝ってから''チャンスをください''やと思うけど」と言う。すごい面白かった。
 大人になるにつれて(大人というものは存在しないと思っているので便宜的にこの表現を使用するが)、「とりあえず謝っておく」とか、「先回りして謝っておく」とかの回数が圧倒的に増えてきた。

「先謝り」というタイトルの2023年のメモから。かなり日記テイストでメモされてある。いったん謝っておく、という手段が正解になる場は、思っているより多い。


 どういう文脈かは分からないけどオーディションで「大杉漣」って答えられて石橋凌と國村隼が爆笑するシーンがめちゃおもろかった。聞いているほどグロくなかったのと、思っていたよりストーリーをちゃんと作っているタイプのホラーで、全然見れた。夢みたいな後半、怖いかと言われれば怖くはないけど、現代劇っぽいことをやろうとしているのは分かって微笑ましかった。評判の「キリキリキリ」よりも、呪怨もどきの、部屋の真ん中にある袋が突然動きだすシーンがいちばん怖かった。

 これが三池崇史の『オーディション』を見たときの感想メモで、

 冒頭5分最高。石橋凌が、電車に乗ってる人の誰もが死にそうに見えてくるシーンは、そうだよなあ と思った。自分もそう思う。田中圭みたいなやついる?と思ったらめちゃくちゃ若い田中圭いた。若い頃の金子貴俊もいた。てか園子温だったのかこれ。どおりで……。死への恐怖が0な世界おもろい。リアリティとは反対のところにある。お笑いコンビ「ジョンカッツ」なる二人組が、「幻覚見ちゃうんですけどね/覚醒剤じゃねえかよ!死んでろよ!/ヨッ」って言ってナイフで首さして片方自殺して、「どうもありがとうございましたー」って言ってて、意味わからんくて、ニッポンの社長こんなんしそう〜と思った。
 子どもが連呼する、〈あなたは、あなたの、関係者ですか?〉のくだりは、完全にキルケゴールの〈自己とは自己自身に関係する所の関係である〉を踏まえているはずだが、ふつうに改めて自己を内省するいい機会になった

 これが、園子温の『自殺サークル』を見たときの感想メモ。偶然どちらにも石橋凌が良いポジションで出てくる。どちらも死のハードルがぐんと下がって描かれた映画で、見ていると、生きていることの価値ってどれくらいなんだ? って思ってくる。どちらも積極的に見返そうという気にはならないが、『自殺サークル』の後半は、また時折見たい気持ちがある(ボーリング場のシーンあたりから)。


 ワノ国編は、''覚醒''が出てくるとなんでもありだなあと思うけど、まあ面白いのでセーフ。ゾロの刀のくだりが一番アツかった。ビッグマムのときも思ったけど、もうそろそろ「敵役には倒されるべき理由が用意されていなければならない」と「でも敵にも複雑な事情がある」とが搗ち合ってきている。こんなに強くなったルフィが、わざわざ倒さなければならないほどの相手だから、それくらいの理由がそこにないといけない。カイドウもビッグマムも四皇だから倒しとくかーくらいの軽い話なのに(それは何回もルフィは言っている)、なんの意味も無く戦っても面白くないから、悪い過去があったことにしておく、みたいなエピソードの盛り方だなと思った。カイドウとリンリン。
 でしかも、ジャンプ作家の悪い癖で相手にも相手の思想や歴史があると言いたくなっちゃって、リンリンの過去とかカイドウと白ひげみたいなふつうに良い話も入ってきて。じゃあ倒さなくていいんじゃないの、と思ってくるし、リンリンとカイドウも、そこまでルフィ殺害にこだわらなくても……と思う。

 最終編に近づくにつれて、すべては運命の下にあったんだ、みたいな話が(ルフィもゾロもサンジも)増えてきてて、全部運命だったんだで終わるなよ、とだけ願っている。(Dとか麦わらとか、まじで運命の強化にしかなってない気がする。BLEACHとかNARUTOみたいに神話化していくのかなあ)。運命が強化される最大の欠点は、本人の努力が無効化される(才能に裏打ちされてしまい、''元が良かった''になってしまう。)ところ。

 一昨年帰省したときのメモ。ワンピースはずっと読んでいたが、私が高校卒業した後は追えていなくて、ちょうどドレスローザでキャベンディッシュが出てきたくらいで読むのがストップしていた。一昨年、実家に帰って、父が集めているため家には全巻あるので、ドレスローザから一気に104巻まで読んだ。
 その時に思ったことをメモしている。とにかく私は昔から運命というものを嫌悪しており、その気配がどんどん後半になるにつれて濃くなってきていることを危惧している。''敵には敵のバックグラウンドがある''というくだりは、物語を重層的にするためにも必要であるとは思いつつ、やたらとそっちばかり書くから、ルフィたちが悪者に見えてくる(実際、向こうからするとルフィたちは襲撃者だから、そう描くことは間違ってないが)。じゃあなんでそこまでして戦うの、と思いながら読むバトル漫画は、現代で勃発している戦争を見ているようで、むなしくなる。
 このメモを書いていたときはまだワノ国編は終わっていなかった時期だが、エッグヘッドでニカとくまの話が出てきて、ますます自分の悪い予感が当たってきていてひやひやしている。ジェルマのスーツを捨てたサンジ、みたいなことがいっぱい起きればいいな、と思っている。


 何一つ、爪痕を残せなかった、完全に負けたシーンがいくつかある。運転中、きついカーブを曲がるときに一斉にそれを思い出した。

 メモを列挙するとき、それらのメモに繋がる導入を、冒頭に設ける癖がある。これは、「負けたことを思い出した」の列挙の冒頭。なかなかいい書き出しだと自賛している。
 負けたくないので、悔しい気持ちはその時々で発生しているが、すっかりそんな気持ちは落ちていって、負けた事実だけが、あっさり隅に置かれている。未だに悔しい、みたいなことは特にない。大学受験で希望のところに通らなかったことも、何度賞に応募しても落選したことも、仕事で何をやっても上手くいかない時期のことも、しんどかったことは記憶しているが、今思うと別に、ウケる くらいにしか思わない。
 つい最近、短歌の選考(「第3回あたらしい歌集選考会」)で選出されたので、順当に行けば来年春〜夏には私の歌集が出る。この一報が入ったとき、過去応募した賞や、応募作や落選作のことを一斉に思い出した。ちゃんと私のことを拾わないから、こうやって他のところに取られるんだよ という気持ちと、落としてくれた結果ここまで精度が上がったからありがとうね という気持ちが一緒に来た。

 このメモも、書いた時は、悔しかったことがいっぺんに思い出された、という嫌な気持ちで書いていた。でも今は、「きついカーブを曲が」り終えて、あとは運転に集中していて、カーブがあったことはもう忘れてしまっている。そして次に来る新しいカーブのことを考えている。


 過去の自分との交信をしているようで、メモの編纂は楽しい。そのメモを書いていたときの気持ち、場所、姿勢、時間も、なんとなく覚えている。
 このメモを発掘して書き留めたこの文章自体も、またひとつのメモとなり、未来の自分が目にすることになる。

 人生が着々と蓄積していて、記憶に付随する感情が着々と剥落していることを思うと、底冷えみたいな恐ろしさと、床暖房みたいなぬくもりとが同時に伝ってくる。

20240412

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