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分かったこと(日記)

 分かったこと。

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 信号待ちで歩道で立って待っていたら、右の遠くの方から、1人、4人、3人が徐々に歩いてきて、続々と来たなあ と思っていた。

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 1人が急に後ろを振り返って(後ろを向いたままこちらに歩いてきて)、「そういえばさあの時、」と大声で言ったことによって、1-4-3ではなく、8だったんだと分かった。
 ついでに、''フォーメーション'' のこともそのとき分かった。

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 横断歩道を渡ったあと、その8人が僕の横を通り過ぎていくとき、最後の一人(3の人)が笑っているのが見えた。

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 8だと断定できたのは、1が振り返って声を出したことだけではなく、それに対して4と3が何も反応を示さなかったことが大きい、と分かった。
 1が、単独の1だった場合、知らない人が急に振り返って後ろ歩きしながら大声で話しかけてきたことになり、4と3は恐怖を示すはずである。

 最後の一人まで楽しそう、というのが、そのグループへの印象をとてもよく高めている、と思った。

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 同じ職場にいる別会社の人が、僕の方に向かって、「そこの若い衆!」と言ったので、本当に僕のことで合っているか確かめるために指で自分を指す仕草をすると、その人が頷いたので、そこで「はい」と返事をしてその人の元へ向かった。

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 自分と何の関係もない他人、が目の前にいて、その人をこちらに振り向かせる(それも相手が不快さを覚えないやり方で)のは、かなり難しいことだと分かった。
 まず考えられる最悪の呼び方は「おい」とか「お前」とか。次に「なあ」「ねえ」。ねえ、は一見可愛らしくて優しそうな呼び方に思えるが、たとえば幼い女の子に対して大人の男性が「ねえ」と呼びかけたら、たちまち危険な可能性が高まる。「男性の方」「女性の方」、も、セクシャリティのことを思うと意外に難しい呼び方。「男の子」「女の子」も、同様。「男性」「男の人」よりも「男の子」と呼びかける方が、''明らかに私はあなたの事を下に見ています'' が出てしまって、良くない場合がある。(年上に向かって「男の子」とは呼ばないはずだから。どこかで少しナメていないと出てこない表現。)
 警察24時とかでは、警察は「お兄さん」とか「お姉さん」とかをよく使っている印象がある。上から言っているのに、言葉上では下から言っているから、バランスが取れていいのかもしれない。「さん」がよく見えるのかもしれない。
 ''若い衆'' と呼ばれて、僕はほとんど不快に思わなかった。その理由は、「若い衆」という表現自体が面白すぎたことが一つ(江戸っ子? 時代小説? と思った)。もうひとつは、僕が呼ばれたくなかった「おい」とか「そこのお前」とか「男の子」とかを避けてくれた、と思えたこと。一瞬それらを避けようと思っていないと、「若い衆」は出てこないだろうなと思うから、この人は何かを選択してその表現をしてくれたんだと思って、そこが嬉しかった。

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 何か言葉を発するときに、一瞬でも、「他の選択肢を想像して選択して消す」を行ってくれる人、のことを僕は信頼していると分かった。言語でコミュニケーションをとる以上、それは普通に行なわれるべきで、無思考で喋っている人の気が知れない、と思う。(もちろん、その語彙の選択や考慮にかかる時間は人それぞれだし、それが馴染みすぎて速すぎて、考慮していないように見える人もいることは承知の上で……)
 この人、今言葉を選んだな を少しでも多く体験したい。

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 言葉の選択 は、より良いものにしようとするときと、より悪くしようとするときがある。
 普通にいえばいいのに、敵意とか苛立ちとか怒りによって、あえて差別用語を選択する、という人もまあまあ見かける。自分の苛立ちを言葉に乗せないと、自分の思いを言ったことにならない、とでも思っているのかもしれない。相手を貶めるために、必要以上に悪い言葉を選ぶ。
 言わなくていいこと、と、言った方がいいこと、と、言わない方がいいこと、と、言ってもいいこと、の境界。
 その境界の具合は、関係性を深めていくことによってだんだん分かってくるものだと思うが、やはり、全くの他人に対して、そこを推測しながら喋るのは相当難しい。だから、「そこの若い衆」は、奇跡的に、僕に「当たった」ことになる。お互いに運が良かったんだと思う。

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 結構長いこと部屋にいて、寝る直前になってなんか寒いなーと思って窓を見たらがっつり開いていて、「歌ったり喋ったりしてたかな」「歌い声・喋り声は聞こえてたかな」と思った。

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 自分は頭の中でずっと喋ったり歌ったりしていて、それをわざわざ口で発声しているかどうかを記憶していないことが分かった。無意識な発声をしている(かもしれない)ことが分かった。
 何を考えているかが大事で、何を言ったか(何が声に出されたか)はそれほど重要じゃないと僕が思っているらしいことも分かった。
 だから、相手が吃っていてもなんとも思わず待つし、噛んだって特に何も感じない。(お笑いのダウンタウンが、昔からやたらと''噛む''ことに敏感なのが不思議だなと思う。噛んで、それを指摘する流れの中で、笑えるところが本当は何も無い気がする。喋りで世界に引き込む職業の人にとっては、噛むことはかなりのミスなのかもしれない……そう思えば「職業」ってかなり面白い)

 すべらない話で霜降り明星・粗品が本筋とは関係ないところで言っていた、夜の帰り道でいつも、イヤホンをつけて普段と同じくらいの声量で歌って歩いている、という話はかなり怖いと思った。小さくはあってくれ、と思う。

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 かわいいですね、を''ふつうに''褒め言葉として、Twitterでアイドルにリプを送っている人を見かけた。

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 これも先に書いた他者への呼び掛けの難しさと同じようなもの。自分はもうそういう、素朴に思ったことを言うことも、人が言ったことを素朴に言われたものとして聞くことも、ほぼ不可能になっているということがわかった。
 かわいいことを売りにしているかわいいアイドルに、ファンがかわいいと言うことに、何の違和感も持たない人にとっては、それに違和感を持つ僕のような人の存在自体が意味がわからないだろうと思う。
 いちいち何故これが嫌なのかを説明することはしない。言葉にすると長くなる。長く言葉を書く用の日記ではないので書くとしたらまた改めて。敢えて言うなら、相手がピュアなのが困ってしまう、ということかもしれない。

 じゃあ何を言ってあげればいいのかという話になるが、それはもう、「言って」と言われたことだけを言うか、何を言われたくなくて何を言って欲しいかを確認しあっているような深い関係を先に築いておく、しかないような気がする。自分でも、窮屈だと思う。
 でも、言葉は、突き詰めていくと、窮屈にならざるをえないとおもう。だから、もし言葉を自由にしたければ、人と関わらない、人に向けて使わないのが良い。人を自由にしたければ、言葉が窮屈にならないといけない。

 俳句や短歌は、ちょうどその中間にあると思う。どちらであってもいけないし、どちらでもないといけないような気がする。とても扱うのが難しいものだと思う。でも、そんなことは無視されて、素人にも扱いやすいよ! という推し方で売られてきていると思う。これが、一番の問題なんだと思う。やっぱり。
 でも僕は、詩の慣れ、玄人、みたいな話にする気はなく、ふつうに、言葉との距離のとり方、人との距離の取り方の話をずっとしたくて、それが上手い人の作品は自ずとそれが表れたものになっているように思う。短歌から作者の人柄を推測することはそこまで好きでは無いけど、言葉への距離感を推測するのは、とても好みなんだと分かった。

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かわいいといわれて
うれしいときと
かなしいときがあるんだ
 
分かる?

/今橋愛『としごのおやこ』より

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 引越しに伴って、免許証の住所変更をしに警察署に行った。人がまあまあ居たので座って待っていたら、同じく免許証窓口に、ベージュのコートを着た女性が小走りでやってきて、「免許証の、名前を変更したいんですけど……」と言った。名前が変わるということは、結婚か離婚か……と思っていた。

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 今度は自分の名前が呼ばれて、変更が終わった免許証を見て間違いがないか確かめて、ありがとうございましたと礼をして帰ろうと後ろを向いたとき、さっきの女性が席に座っていたのが見えた。そしてその隣に、べったりくっついている男性がいるのが見えた。結婚の方なんだな、と分かった。

 夫婦で来るんだ、と思った。男性の方は変わらないのだろうか。変わるとしたら片方だけか。
 警察署でいちゃつけるんだ、と思った。でも別にどこでいちゃついても構わないか、と思った。
 婚姻届を出すときも多分そうしただろうな、と思った。免許証の名前変更でこれなんだから、婚姻届なら尚更。
 小走りで来るんだ、と思った。その感じなら、ゆっくり来て見せびらかすようにすればいいのに。そこは早く済ませたいのか。二人にはもっともっとしたいことがあるだろうから、事務手続きは出来るだけ早く済ませたいか。

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 一目見ただけで5,6個想像するのは、もしかしたら気持ち悪いことなのかもしれないと思った。思ってても言わないようにしようと思った。

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 言うことより思っていることが肝心と言った直後にこういうことを言ってしまうのが自分の悪い癖だなと分かった。

20221206




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