11日目: 「家族」についてー『家族と国家は共謀する』から #2
10日目:「家族」についてー『家族と国家は共謀する』から|jei (note.com)の続き
前回は、DVが看過されやすいことは、社会的に抑圧されてきたジャンダー間の暴力が家庭内に現れる構造的問題と、家庭内においては夫や妻、子どもなどの共犯的関係、依存的関係によって隠匿され、否認されやすいという問題をまとめてみた。「被害者」というポジションを取ることこそがまずそれを脱することの第一歩であることを著者は強く訴えている。もちろん、被害者権力の危険性を十分に認識しながら。
「家族」というディスクール
ラカンの『エクリ』の翻訳者の佐々木孝次は『母親・父親・掟』で日本では精神的に母子一体を生涯を通じて抜け出せないことを精神分析の観点で主張していた。自分も大学院時代は、そうした日本批判の立場でものを見ていたが、裏返せばそれは西洋がやはり大人で個が確立した成熟した社会と看做していた。もちろん、哲学や科学などが生まれた文化背景として西洋文化は中心的だろうと思うものの、本当に西洋に比較して不足した部分だけを論点にすべきかどうか、今では疑問に思うというか、その答えを未だ見出せてはいない。
ただ、佐々木の指摘するどうしても日常の言語活動でいつも自分が何者としてそれを行うのか、漠然とした不安というか話している最中に自分は誰としてそれを語っているのかわからないというよりも、自ら曖昧にしておくべきだという意図が働いているのを微かに感じる。
だから、この無法地帯とされる家族内でさえも自分が「ありうべき父親」として、つまり昨今推奨される「理解のある親」「子どもに寄り添う」「いつでも味方である」「ただ見守る」などなんでもいいが、とにかく子どもに対して自分は他の誰も代え難い愛情を持つ特別なポジションであることを前提に、怒ったり、呆れてみたり、褒めてみたりなど忙しなく動いている。
まさに、こうした「親とは子どもにとって特別な存在なのだ」=子どもとはすべからく個性的で才能に溢れた純粋な存在で、それに比べて親は一律に子を愛して育てている、と予め設定された枠内で己の行動を解釈し、言い訳し、取り繕わなければならない重圧を感じ続けている。
自分でも、こうした兆候は非常に危険だと思いながらも、その反撥として子どもに対してパートナーがいない時、第三者がいない時に過剰な態度を取ったり、怒りをぶつけることがある。そしてそれを、設定された親というカテゴリー、機能に当てはまらないと振り返って気づき、自らを苛む。
このループから滲み出る暴力のことを信田氏は問題にしているのだと思う。自分がある程度のことをしようが、周囲はそれを「育児って大変だもんね」と慰めてくれるだろうし、自分もそれを期待し、きっと乗っかることだろう。
こうした言説、社会的に許容されまかり通った言い方こそが、家族という社会的紐帯を形成しているのではないだろうか。親だから、子どもだからそれはあり得る、とする言説=ディスクールは社会的形成物であって、決して必然性はない(遺伝など生物の繋がりなどはもってのほかだ)。そこに司法が介入しにくい理由は、まさにこのディスクールが優位な場が家族だから。では、このディスクールが生成されるメカニズムはどうなっているのだろうか。ラカンはこれを4つしかないと結論づけていた。
またもや、思ったよりも長くなってしまった。お盆が台風のおかげで喜ばしくも外出することなく家で過ごせそうなのでまた明日にでもゆっくり書こう。また1日空いてしまうかもしれないが、あまり気にしない。冷蔵庫にあるもので何かを作るように書いてみよう。今日はちなみに具材を鍋に入れるところまでパートナーがやってくれた後の味付けと煮込みを担当して作ったシチューはとても美味しかった。クミンとコリアンダーシードの効いた鳥肉とにんじん、ジャガイモ、トマトを蒸して作ったシチューだった。オリーブオイルとDukahが決め手になって、白ワインととてもよく合っていた。
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