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【人間関係】ジャッジをやめると奇跡が起きるというお話(完全版)

こんにちは。本日もお越しいただき本当にありがとうございます。愛してます

さて、本日のテーマは「ジャッジしない生き方」ということですが、実際「あの人は〇〇だからダメだ」とか「あの人はこういうところが〇〇で腹立つ」といった会話は日常生活で頻繁に交わされるかと思いますし、人は人に対して何らかのジャッジを下しながら人間関係を構築する生き物ですから、それをやめるというのは不自然なことのようにも思えます。

特に社会人にとってこの「ジャッジ」というのは人事考課にも大きく影響する部分ですし、「全員を平等に見る」ということが「頑張っている人と怠けている人を同一に評価する」ということにも繋がり、結果的に不平等となってしまうことも往々にしてあるわけです。

ではやはりジャッジは必要なのでしょうか。

これに対する私の回答は「社会にとってジャッジは必要。でも自分にとっては不要」となります。

今回はこれを深掘りして解説していきますので、是非最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

ではいってみましょう!


1.ジャッジの定義

先ほど私は「社会にとってジャッジは必要。でも自分にとっては不要」と書きましたが、社会にとってジャッジが必要な理由は前述のとおりですね。

会社を例に挙げれば「ジャッジしない」ということは「頑張りを評価しない」と言っているのと同義なのでした。

もちろんスピリチュアル的にはジャッジの存在しない世界が理想なのかもしれませんが、現実問題として会社の昇進であれ選挙であれ、この世界を構築するルールはすべて何らかのジャッジの上に成り立っているわけですから、これを否定することは今私たちが生きるこの世界そのものを否定することに繋がるわけです。

ここでジャッジの定義を記載致しますが、「社会のジャッジ」としてしまうと問題が大きくなりすぎますので、今回は「会社(=社会)でのジャッジ」「個人のジャッジ」の2つに分け、説明していきますね。

「会社でのジャッジ」とは

感覚的におわかりいただけると思いますが、会社による個人をジャッジは「業務上の評価」「採用」「昇進」「配置転換」などが該当します。この場合のジャッジは業務の遂行能力や成果、職務への適性、チームワークなどに基づいて行われますから、より客観的な基準や評価システムに基づいていると言えますね。会社におけるジャッジの影響は以下の通りです。

キャリアアップ:これは当たり前ですが、評価が高ければ昇進やキャリアアップのチャンスが増えますよね。もちろん低評価はその逆を意味しますが。
公平感を生む: 信頼のおける評価システムは何より公平感をもたらしてくれますから、従業員にとって安心してスキルアップできる環境を作ってくれます。「やりがい」や「働きがい」も「不公平感の無い適切な評価システム」の上に成り立つものですし、逆に不適切な評価は従業員のモチベーションを著しく低下させるものです。
組織全体のパフォーマンス向上:上記のモチベーション向上は組織全体のパフォーマンス向上に寄与します。つまり正確で公平な評価は組織にとって多大なメリットがあるということですね。もちろん不公平感を与えてしまったり偏見に基づいた評価をした場合には評価自体が組織の衰退を招くわけです。

「個人のジャッジ」とは

一方で個人が他人をジャッジする行為は、その人の「行動」「言葉」「服装」「選択」などを評価することが多いものです。この評価は主観的な意見や先入観、偏見に基づくことが多く、対象者の本質や状況の全貌を正確に捉えていない場合が多いものです。個人間でのジャッジは、以下のような影響を及ぼす可能性があります。

人間関係の影響:他人を厳しくジャッジすれば、当然友情や家族関係に亀裂が生じる可能性がありますよね。
心理的影響:他人の主観的な言葉は思いっきり心に刺さることが多いものですから、やはり言われる立場からすれば精神的な影響が大きく、自己肯定感の低下や社会的孤立を引き起こす可能性があると言えます。
コミュニケーションの悪化:互いにジャッジし合うことで、オープンなコミュニケーションが難しくなり、誤解や対立を招くことがあります。

2.個人のジャッジはメリットが無い

先ほどの定義の中で気付いていただきたいのは「会社のジャッジ」が客観的な基準のよってなされるのに対し「個人のジャッジ」は主観的に、かつ相手の全体像が見えない中で行われる場合が多いということです。

もちろん、カップル同士で「絶対浮気しない」とか「既読スルーしない」とかいうルールを設けた上で「守ったから〇」「破ったから×」みたいなジャッジを下すケースは多々あるかと思いますが、基本的に「あの人は〇〇だ」とか「あの人は私にとって〇〇だ」みたいな「特定のルールの上に成り立っていないジャッジ」はどこまでいっても推測の域を出ることはないのです。

何故なら会社と違って、人間関係には明確な正解が無いからです。会社のような服務規律が無いからこそ、結局は個人の主観的な判断で〇×を決定せざるを得ないのです。

ここまで話せばなんとなく今回の結論が見えてきた方もいらっしゃるかもしれませんが、はい、今回の結論は「個人のジャッジは無駄」ということです。

考えてみてください。仮にあなたに対して「その服ダサいよ」と言ってくる人がいたとして、「うわぁこいつ腹立つわ絶対嫌な奴だ」というジャッジを下すことがいったいどんなメリットをもたらしてくれるでしょう。

むしろ「ああ、こいつは私の服をダサいと思ってるんだな」という事実のみを±0の状態でありのまま認識した方がわざわざ余計なストレスも溜めなくて済みますし、余計な感情を加えないことで「確かに今のファッション似合ってなかったな」と気付いて改善できたりもするわけですから、長期的には自分にメリットをもたらしてくれる可能性が高いと言えるのです。

それに「その服ダサいよ」という言葉の本意は、その言葉を発した本人にしかわからないわけで、もしかしたら前々から陰であなたのファッションが馬鹿にされ続けているのを見かねて決死の思いで発した言葉なのかもしれませんし、長年思い悩んだ末に本気であなたのことを考えて発した一言なのかもしれませんよね。

いずれにせよ、その場の感情に任せたジャッジは、これ以外にもありとあらゆる状況で何の役にも立たないことは、色々と当てはめて考えてみればおわかりいただけるかと思います。

「その服ダサいよ」に対して「!?」となる女の子の図

3.それでも腹立つもんは腹立つんだよ!

・・と、今ほど「服がダサいとか言われて腹立っても相手をジャッジするな」的なことを言ったわけですが、恐らく今の段階で「なるほど、そうだね」と思った方はほぼ皆無なのではないかと予想しております。

そりゃそうですよね。「服ダサいよ」とか言われた直後に「なるほど、そう思われてるのか」なんて冷静に受け止められるのは100人いたら1人いるかいないかぐらいの割合でしょうし、ほとんどの場合「なんでそんなこと言うの!?」とか「もっと言い方あるやろがい!」ってなって、とても±0の感情で事実のみを受け止めるなんてできないはずです。

そしてそういった感情を癒してくれるのは「あの人いきなりダサいとか言ってきた。マジで嫌な奴だよね」といったような愚痴を聞いてくれる友達だったりするわけですから、「ジャッジすること」自体が「自分を保つ手段」になっている方も多いことでしょう。

ですから一言に「ジャッジしない生き方」と言っても、実はそれって非常に難易度が高いスタンスなんですよね。

ではどうするか、ということですが、それについては順を追って解説して参りますのでこの章はここで一度区切らせていただくことに致します。

それに、そもそも「個人のジャッジ」って本当に悪いことなの?というお話もまだしておりませんでした。

おそらくここまでの話だと「結局何が言いたいのさ?」といった感じかと思いますが、ここからが本題ですのでどうかご安心ください。

これ以降は「ジャッジをするとどんなデメリットがあるのか」「ジャッジをしないとどんなメリットがあるのか」「でもどうしてもジャッジしなきゃ心が保てない!の対処法」といったような内容を詳しく解説して参ります。

「その服ダサいよ」に対して「お前の価値観俺と違いすぎて草」と平然と答える男性の図(メンタルモンスター)

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