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線形の平日を超えて、私は2日連続でたこやきを食べる

他愛ない言葉を続けたい。どれだけ他愛ない言葉だろうと、人はそれに反応できる。無言のうしろで楽しんでくれてるかもしれない。あるいは呆れたり怒っているかもしれない。あたまのどこかで理解を求めながら。

金曜日はおよそ2ヶ月ぶりに、会社に出社した。保育園への送りから迎えまでの7時間。移動と昼を除けば、たったの4.5時間。すっかり慣れた在宅8-10時間の勤務を考えると、あまりに少ない。

そこにあったのは他愛ない無駄だった。わずかな時間の中の、とても豊かな無駄だ。通勤電車の車窓も、同僚との雑談も、オフィス内のわずかな移動も、おいしいランチの浪費も。

そして、ウェブカメラではなく自分の視点で見て取れる、自分以外の人たち。あと、そのリアクションも。同僚さんとの一喜一憂に、ひさしぶりの無意識が喜んでいる。

しばらくリモートワークで生活している。リモートMTGで会話するほとんどが、ある目的を目指して進む。どれも線形。それはそれでいいと思う。合理的であって、意思決定も速い。ウェルカム・ニューノーマルだ。たまに、身の丈に合わない決定まで結んでしまわないか、とハラハラすることもあるけど。

身の丈にあっていて効果の明らかなものを打算して取り組めるのはいいとして、一方で打算のないもの、投資対効果を図らずやらない。というのは個人的につまらない。そこに豊かで他愛ない無駄が欲しい。

この間は書籍を購読したり、オンラインセミナーやイベントを聴くなどしてきた。得られるものは得られるものの、それで無駄は充足しない。無駄は無駄で豊かに満たしたい。

来週は自分も登壇機会を頂いて、オンラインでお話させてもらうことになっている。できるなら線形のHow toより非線形、他愛なく求めるWhyに焦点をあてたい。(それをそのまま話すことはないけど。)

Why?理由なんて、不合理も不条理もままありますよ。人の数だけ人生がある。人の数だけ視点があるし、視点から叶えたい要望がある。たくさんの要望をそのまま、ひとりの視点でまとめようとしても無理だと思う。まとまった理由にはならない。

人には肩書きがあるけれど、それで分かった気にもなりたくない。実際会ってみるとほら、十人十色でしょう。その人の理由だ。

肩書きの権威性は人を人として見えなくさせる。「マーケターだからマーケティングは任せられる」と思って任せるのは違う。人はその肩書きの機能やフレームではない。人の要望と、また別の人の要望のあいだで、その観点を含めて考える葦だと思う。そこで生まれるWhyって何か?

対面で探っていくなかで、個人的に気をつけていることを思い出した。相手の話を遮ったり、聞きにくいペースで喋らない。逆に、理解を諦めたり、中庸なフリして意思表示から逃げたりしない。オンラインMTGだと1:Nのコミュニケーションとなり、放棄する気がなくともmuteして放棄してしまっているような気がしてくる。1:1の丁寧なコミュニケーションは一見無駄なようで、あらためて理解への近道だと感じた。

土曜日(昨日)は家族でたこ焼きを食べた。1:1:1でおいしかったから、今日も食べようと言っている。家族という小さなコミュニティのなかで、今日も無駄に豊かな時間を味わえたらいいな。しばらく張りつめていた平日の傍らに、こんな休日を置いていこう。お粗末様です。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。