写真撮影は数打てば当たる
記録が主じゃった写真撮影。
いつしか、作品作りに変化しおる。
もともと小学生の頃から、おとんのカメラ(CANODATE E)を勝手に借りてカラーネガフィルムを、おかんに買ってもらい近所やその頃仲良くしおった人達を撮影してた。
その被写体が鉄道写真への変わっていくのも差ほどなく、おとんの影響も多大に有って取り出していったのは言うまでもない。
中学生の頃にはすっかり飽きて、PC のプログラミングやゲームに勤しんでカメラを何時からかあまり触らなくなっちょった。
高校生の頃にアマチュア無線の交信で知り合った宝塚の JL3JBY 局から、ひょんな事からCANON A1 を譲ってもらう事になって、久々のカメラ小僧の復活をする。
NEW FD 50mm f1.8 の所謂標準レンズで、鉄道写真を中心に撮っていたかな。
初めての一眼レフ機で、また別のアマチュア無線で知り合った今でも腐れ縁で繋がっちょる JH3IUU 局に「交換レンズで世界が変わる」と、入れ知恵され 28mm f2.8 を中古カメラ屋で購入した。
当時はそれでも楽しんで居ったが、社会人になってデジタル化の波が到来し、デジタルカメラのエポックメーキングで名高い CASIO QV-10 は欲しかったが、高額で手に入らんって思いつつ、数年ののちには技術進化が激しい業界となっていて、安価で且つ高性能なデジタルカメラが続々と発表されていたのを今でもなんとなく覚えちょる。
社会人?年目の頃、ミノルタのディマージュシリーズを買い込んだ。
友人からお古の軽自動車を譲ってもらって、一緒に連れまわしていた記憶がうっすらと残っちょる。
摩耶山、生駒山、武蔵の付かない嵐山などなど。
この頃撮影しおる写真は一枚も現存しおらん。
理由は簡単。
当時の HDD は耐久性が今の HDD とは比べ物にならん位もろくて、耐衝撃性はかなり敏感じゃった。
当時では珍しく HDD リムーバーを導入していたのが仇となり、落下試験をしてしまい OS や当時の写真その他の文書など、この時点で綺麗サッパリと失うことになったけぇ、一枚も現存しおらん訳だ。
そこから、生家近くのパソコンショップの常連さんからFUJIFILM FinePix シリーズを格安で分けてもらった事も有ったかねぇ。
先のディマージュとの色合いが全く別で、映像素子と処理の違いと世代の違いを目の当たりにし、衝撃的じゃったのは今でも鮮明に覚えちょる。
この頃のは、古い HDD には保存しおるけん、digれば出てくるじゃろな。
月日は経って殆どデジタルカメラでしか撮影しなくなって、手持ちのフィルムカメラの処遇に困る→要は邪魔。
と思いつつ、これまた高校時代の腐れ縁 JE3FIY 局が仕事の関係でオリンパスのフォーサーズマウントのE-1 を、当時大阪日本橋に有ったマップカメラで購入し、適当に撮影した夕日の写真の上りに二人して絶賛した記憶が今でも残っちょる。
それを見ていて当然ワシも新しいデジタルカメラが欲しくなって、当時出始めたオリンパスのマイクロフォーサーズ機である、ペンライトの初代を衝動買いし、同時に手持ちのデジタルカメラを全て処分した。
これが、ワシの写真に対する考え方や撮り方を変えた切っ掛けをくれたカメラだ。
当時、尾道へ半年に一回以上のペースで足しげく通って、にゃんこさんの撮影を必死に撮っていた頃で、この頃の撮影枚数は猫が九割。
そのにゃんこの撮影と同時位に、ライブには一度も足を運んだ事が無い位で、イベントにも殆ど参加しおらん今で言うインキャじゃったのが、近藤夏子さんとの出会いで、徐々に変わりだしていく事になるとは、その当時考えもしなかった。
被写体が構造物→人間や動物へと変わった時期でもある。
当然、当時撮影しおる写真は構図もド下手。
記録撮影のスタイルそのままで、見返すのも恥ずかしい位の構図。
それを徐々にイベントの参加を増やして、撮影回数も増えて行った事による、自然な被写体の映し方とか被写体の魅力が引き延ばせられる撮影方法を模索しおる事に自然と変わっていったのは言うまでもない。
2023年
ある程度の品質で撮影出来るようになったとは思うが、まだまだなトコもあり、楽しみながら写真撮影を継続していきたいと思う。
注:記載しおる呼出符号は執筆現在現存しない表記があります。