生きる意味についての思考実験等(仮)

生きる意味・根拠についてググったり本を読んだりしてみると、
「あなたという存在自体がかけがえのないモノであり、その言動も同様にかけがえのないモノである」
という論調を見かける。

ならば、少し考えてみよう。
"この私"と同じ言動をするロボットなりアンドロイドなりがいるとしよう。

脳の電気信号が生み出している、"生きる意味について思考しているこの私"でないとならない理由はあるのか?

"思考するこの私"と同じような反応をするブラックボックスさえあれば、"思考するこの私"自体の存在は不要なのだと思う。



また、日本国内だけで見ても労働者層の死亡者は決して少なくない。
しかしそれは、問題視されはするものの、大勢には変化がない。
(当然であるが、個々人の生死について一々かまって居られるほど余裕のある人は少ないのだ。)

まさに"替えがきく"。社会人をしていたら、このことを痛感できるのではないだろうか。会社勤めでもフリーランスでも経営者でも一緒だ。
例えば替えがきかないと言われる人でも、死んだら死んだで誰かがなんとかする。

上記2点から、"思考するこの私"が肉体を持って生きる意味が果たしてあるのだろうか。
思うに、ない。

自身で何か意味を持たせられる、或いはこの問題自体を無視できる人こそ、幸福であると私は考えている。

以下はトルストイの『懺悔』を読んだ記憶から引っ張ってきた例えだ。

穴の中で、木に辛うじてぶら下がっている。目の前には甘い汁が滴っているからしばらくは大丈夫。しかし穴の下にも上にもこちらを餌だと狙っている化け物に睨まれている。

甘い汁に夢中になれるのが前者、上下に気づかないで済んでいるのが後者だと解釈している。

しかし状況に気づいた瞬間、その問題を解決しないことには【生きていかれない】(岩波文庫『懺悔』トルストイ での表現)

世界や世間に"生かされている"という表現を見かける。
解釈は2通り。生かして頂いているという感謝のニュアンスを含んだ考え方、そして生きることを強要されている風なニュアンス。

もちろん私の解釈は後者だ。
ただ"生きる"と言っても、3種類あると考える。
・自分の生を実感しながら生きている
・生きているから、生きている
・生きていることに疑問を持ちながら、疑問の解消の為生きている

私は3番目のつもりでいるが、この問題に確たる答えはないはずだ。
しかしそれでは【生きていかれない】。

解決策の1つとしては信仰だと私は考える。
既存の宗教なら教義なり何なりで生きる意味を決めてくれるだろう(原始仏教は除く)。
金、人、愛などに盲目的に依存するのも私に言わせれば信仰だ。
それを絶対として扱うのならば、それで良いのではないだろうか。

私においては、如何せん信仰対象が見つからない。
"思考するこの私"が納得して、全幅の信頼ができる信仰対象が今の所見つからないのである。
これさえ見つけることができれば、生きる意味の根拠足り得るのではないか。

今はとりあえず、仕方なく、疑問の解消のために、仕方なく生かされている。

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