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アル中毒親父でも、嫌いになるのがツラかった

今日、会社から新しい保険証が届いた。

私の保険証に22年間ずっとあった父の名前と父の勤め先が消えた。

代わりに自分で決めて就職した会社の名前と、その所在地が印刷してあった。

古い保険証を手放すことになり、私は生まれて初めて「自分は父に扶養されていたんだなあ」と思った。

私の大学受験と離婚騒動

私の父は、かなりヤバイ。

初めてヤバイと思ったのは、私が大学入学を決めたとき。特に正当な理由もなく、父が私の進学に反対したときだ。

一方、母は早々に承諾してくれた。母はパートを増やし、ときに祖母にお金を借りたりして(祖母は私の為ならと躊躇なくお金を出してくれ、本当にありがたいことだった)私の塾費用、大学受験費用を集めてくれた。

その間、主に父親がしてくれたことは「大学なんて何の為に行くんですか運動」だけだった。

この運動は主に父が酔っぱらっているときに家庭内で開催され(というか、父が家で酒を飲んでいないときはなかった)、内容は酒に酔った父が「大学なんて何のために行くんだ!」とひたすら言い続けるというものだ。

ちなみに「何のために大学に行くんだ!」という怒り方は建前で、実際のところ父は私や母の意見に全く聞く耳を持たなかった。

当時18歳の私が「現状の私は就きたい職もやりたいこともわからない。だから大学の四年間で視野と選択肢を広げながらやりたいことを見つけさせてくれ」と言っても、母が「大学に行っていない私たちが大学に行く意味を考えたところで答えはわからないけど、まゆ子が行きたいと言っているのなら親はそうできるように努めるべき」と言ってくれても、父は「俺はお前らと意見が合わない」と言うだけだった。

父は「俺とお前は所詮他人だ」みたいな無駄にスケールがでかい言葉を母に投げ続け、とうとう2人は離婚することになった。離婚すると決まった日、父は母に「子供たち2人とも連れて出ていけ。この家は俺のものだ」と言った。やっぱり酒を飲んでいた。

おーおーおー。ドラマで見たことあるやつだ。どうせ私もう18だし、あと数年で家出るだろうし、どうでもいいか。

と思っていた私とは裏腹に、中学に上がったばかりだった弟は両親の離婚を泣いて嫌がった。比較的年の離れた弟は私にとって可愛い存在だったから、もうこんな可哀想なことになるなら大学なんて行かなくてもいいんじゃないかと思った。

でもここで諦めたら大学に行った同級生を見るたびに「私はわけわかんねえ父親のせいで大学行けなかったんだよな」と思い、大卒の同期を見るたびに「私よりまともな親持って恵まれてんだろうな」と思いながら生きることになる。

最終学歴なんかより、生涯にわたるコンプレックスを抱える方が生きる弊害になる。そして、たしかに親のせいで抱えたコンプレックスだったとしても、それを本当に親のせいにして生きていくのはダサすぎる。

もうこうなったら意地でも大学に行く!!!!!

母が発狂したり父が酒を飲みまくったり、ときに自分が発狂したりする中で私は受験勉強をした。

周囲の受験生が成績に伸び悩んだり、部活と勉強が両立できなくて泣いたりしている中、私はあんな父親を持った不甲斐なさに何度も泣いた。自分でも「泣く理由おかしくね?」と思ったけれど、本当に一人でよく泣いていた。大学に行こうとすることがそんなに悪いことなのだろうか。そもそも父は何故あんなに私が大学に行くのを反対するのか。大学進学は家族を引き裂くほどの要因になることなのか…

18歳にしては正直幼い切望だと思うが、両親から「勉強しなさい」と言われている同級生が羨ましかった。両親と受験の戦略を立てている子が羨ましかった。人生のコマを進めようとする自分を、私もパパに応援してほしかった。

そんなこんなで、膨大なストレスで盛大に肌を荒らしながらも、私は無事に大学受験を終えた。結局家族もバラバラにならなかった。

大学生になった私は、母が運転する車の助手席で

「パパは社会人になったまゆ子とお酒を飲むのが夢だったんだって」と聞いた。

私と仕事の話をしながら一緒にお酒を飲むのが楽しみすぎて、あの人は私が大学に行くのをあんなにも反対したらしい。早く働いてほしかったらしい。

自分が経験したことがない大学生になられるのがきっとちょっと寂しかったのだろうと、母は話す。

私はやはりまた、あまりにも不甲斐ない父親を持ってしまったのだと痛感した。

父が私の大学進学に反対しなかったら、普通に応援してくれていたら、母は祖母にお金を借りることもなかったし、離婚騒ぎには勿論ならなかったし、家庭内はあんなに険悪なムードにならなったし、それによって弟も傷つかなくて済んだし、何より、私もこんなにパパを嫌いにならなくて済んだのに。あの人はそんなくだらない理由でこんなに周りを巻き込んだのか。

話す母の横顔はどこか父を許したような印象があったけれど、私は母と同じ気持ちにはなれなかった。

父のアル中クズエピソード

この一件があってから、私は自分の父がかなりヘンなやつなのだと実感した。母は私がそれに気づいたことがうれしいとでも言うかのように、父の今までのクズエピソードや愚痴を頻繁に話すようになった。そして、母の話を聞いたり父の言動を見たりしているうちに、私は父がアルコール中毒なのだと確信した。

母に聞いた話の一例だが、例えば、深夜泥酔して帰って来られなくなった父に母が呼び出されたとき。

母が車で迎えに行くと、事前に知らされてない父の部下2人もいて、逆方向の彼らの家まで送らさせられたらしい。つまるところ、部下2人は父の介抱係で残ってくれていたので、彼らも父の被害者であり、そういう意味で母はこの2人を家に送ることに疑問はなかった。ただ、泥酔&嘔吐で話にならない状態の父に、強引に乗っていけと言われ、部下たちは随分申し訳なさそうだったそうだ。

まあ問題はココからだ。

後日、父は母に感謝の言葉も謝罪の言葉もなく、それどころか「一緒に車に乗った後輩が『あの運転なら吐いても仕方ない』って言ってた」と母の運転を悪く言った。(もしこれが本当だとしても、後輩は無駄に高い父のプライドをへし折らないよう、相当気を使ってくれたのだと思う。本当にうちの父がスイマセン)ちなみに母の運転は至って普通である。

父のアル中最低エピソードはまだある。

自分より子どもを優先されると明らかに機嫌が悪くなり、リビングの真ん中で酒を飲みながらテレビに向かって「しね」「ブス」「ババア」など小学生みたいな暴言を吐いた。

子供を優先すると言っても、大したことではない。母が部活帰りの弟を車で迎えに行こうとしている際(弟は脚を怪我していて、迎えが必要だった)、酔っぱらいの父が「腹が減った」と言い出した。母は「今迎えに行ってくるから冷蔵庫の中のものを食べておいて」と言った。そしたら、父が怒り出した。お前は過保護だとか、弟は自立心が足りないとか言い出して、最終的に誰にも相手にされなくなると酒を飲みながらテレビに向かって誰に言っているのかもわからない暴言を吐き続けた。

こういうことが日常茶飯事なのだ。

もちろんこれ以外にも父の最低なエピソードはまだまだまだまだある。むしろこんなのはかわいい方だ。

父がいつどんな言動で私たちを不快な気持ちにさせてくるのか、父がいるときはいつも不安だった。父の言動を目の当たりにしなくとも、父が何かやらかせば、私は母から愚痴を聞く役をしなければならない。

父を嫌いになる自分がツライ

ちょっと気持ち悪い話だが、母は父と一度は愛し合い、結婚を決めた仲だ。だから母が言うどんな愚痴には「あの人はまったくしょうがないわよねえ」のニュアンスが付いてくる。父のどんな言動にも「まったくしょうがないわよねえ」の気持ちがある。女というのは多分大半がそういうもんだ。好きな男にはそうなる。私も女だからわかる。

しかし、生まれたときから「父親」は「父親」以外の何者でもない私には、「まったくしょうがないわねえ」の気持ちは1ミリもなく、むしろどんどん父親を本気で嫌いになった。母が父を嫌いになるスピードより、娘の私が父を嫌いになるスピードは何百倍もはやかった。理由はない。強いて言えば「娘だから」だ。父と娘だったからだ。母はそういうのがよくわかっていなかったと思う。母は自分と同じ温度で、娘の私も父の悪口を言えると思っていた。

でも実際の私は、自分が父親を嫌いになっていくことに傷ついていた。母から父の信じられないエピソードを聞くたびにどんどん父親を嫌いになっていく自分に傷つき、父のことを悪く言う自分に傷ついていた。馬鹿みたいだった。多分、割り切って父の悪口を言えたことなんて一度もない。

私はもともと父が好きだった。幼い頃、家族で出掛けたときに手を繋ぐのはいつも父だった。夏休みは一緒に近所の市民プールに行った。当時は全然泳げなかったから、泳いでいる父の背中に乗っけてもらうのが楽しかった。学校で何か嫌なことがあっても、家に帰れば父がいると思えばなんとなく気持ちが晴れた。父は怒るとめちゃくちゃ恐かったから反抗こそできなかったものの、それが逆に心強かった。強いパパが好きだった。

私はパパが好きだったのに、父はいつのまにか勝手にアルコールでぶっ壊れた。

私はアル中の父親の被害者なのに、父親もアルコールの被害者で、家族を傷つけても酒を飲み続ける弱い父が情けなくて可哀想で、どんどん嫌いになった。

私は実家を出たかった。これ以上父を、家族を嫌いになりたくなかったから、早く距離をおきたかった。

実家を出られなかったワケ

しかし、すぐにはそうできない理由もあった。

在学大学中、私は何度か、数か月単位で実家を離れたことがあった。リゾートバイト、ワーキングホリデー、短期留学など、いずれも1~2ヵ月程度だ。

私が実家を離れている間、父はだいたい何かをやらかす。

1番許せなかったのは、父が意味もなく弟に暴力をふるったと聞いたとき。これは私が短期留学から帰って来て聞いた話だが、そのときも父は酒を飲んでいて、弟が入った直後のトイレに入ったらしい。当然、そう新しくないトイレは2回連続で流すことができない。自分のブツが流れないことにイラついた父は、何も悪くない弟を追いかけ、髪を引っ張り、裸足のまま外に放り出した。何も悪くない弟は髪が束になるくらい抜けていたと、母は言った。父は自分がしたことをハッキリ覚えていない。酒はなんて素晴らしいものだろうか。

私は、父が嫌いとか好きとかそういう感情を越えて、初めて「この場合の父を刺すのは正当防衛か」真剣に考えた。そして、たとえ正当防衛とみなされないとしても、もし同じことが起きたら絶対やったると心に決めた。私の目の前で同じことをしてみろ、刺すぞ、という気持ちで私は実家に居続けた。私の気が強い性格は父に似ていた。

私の気迫が伝わったのか、父は私の前であまり失態をしなくなった。父が弟に害を与えたエピソードはまだあるのだが、それはどれも私が知らない間に、私が目を離した隙に起きてしまった。逆に言うと、私が目を光らせていればある程度大丈夫なのだ。

母から伝わって来る父のクズエピソードと愚痴は相変わらずだったが、私が母の愚痴を聞かなくなれば母は弟に話すだろうと思い、聞き続けた。

私が傷つくより弟が傷つけられる方が全然耐え難いから、これで良かった。

父が酒を減らしたキッカケ

でも、父のアルコール摂取はエスカレートした。

酒に酔って風呂に入り、溢れかえる浴槽の中で溺れかけて発見されたり、何故か浴槽の蓋を真っ二つならぬ真っ四つに割っていたり。

睡眠障害みたいなものも頻繁に起こすようになって、寝ているときに世界の終わりみたいな声で突然泣き叫んだり(聞いたことがある人はわかると思うが、大人の男が泣き叫ぶ声というのは非常に恐ろしいものがある)、またあるときは、寝ながら喋りながら笑いながら歩き回って家の中をそこらじゅう漁ったりしていた。

この場合、話しかけると一時的に返事はするのだが、翌朝父には記憶が全くない。父は起きているときも断片的に記憶が飛んだりするようになった。

勿論酒を飲んだときの暴言等も変わらなかった。

そんなある日、父が弟に本気で怒られる出来事が起きた。

父が酔っぱらってトイレに入った際(またトイレである)、便器の中で流れきっていなかったトイレットペーパーをわざわざ拾い上げ、弟が知らない間に弟の部屋の机の上に置いたのだ。漫画やドラマで、こういう陰湿ないじめ方を見たことがある。

父の行動が意味不明過ぎて、私は自分が感じている感情が怒りなのか恐怖なのか呆れなのか殺意なのかわからなかった。

でも、わざわざ便器からびしょびしょの細菌だらけのトイレットペーパーを拾い上げ、それを持って私の部屋の前を通過し、弟の部屋に入り、机の上に置いた父親を想像するとゾッとしたし、何より、一人でそれを発見した弟と一人で片づけた弟の気持ちを考えると絶対に許せないという気持ちになった。

ついに正当防衛するときが来たのだと思った。アル中の人間は日頃から隙だらけだ。刺すなら、浴槽で溺れているときがいいだろう。これぞ本当の「溺れるナイフ」だ。いや正確には、溺れているのはただのアル中のおじさんだ。・・・ふざけてる場合ではない。

弟はこの件について父にかなりビシッと物申したらしい。ついでに「今までの父の言動がどれだけ母の心労になっているか」「姉はどれだけ気を遣っているか」「いい加減酒を飲むのをやめろ、自分で自分がオカシイと思わないのか」などを、彼の言葉で父に伝えることに成功したらしかった。

これを皮切りに、なんと父は酒の量を減らし始めた。もちろん、自分の記憶がない間に家の中の物が壊れ、人間関係も壊れていくのにショックを受けたというのもあるだろうが、息子にこっぴどく叱られた効果はてきめんだったようだ。

結局、娘の私が家で無言の圧力をかけ続けるより、息子である弟がビシッと言ってやる方が根本的な解決に繋がったのだった。

昔の父

私はこのまま昔の父が戻ってくることを願った。

母の話によると、父はもともと全くお酒が飲めなくて、缶ビール1本でいっぱいいっぱいになるような人間だったらしい。結婚当初、私が母のお腹にいるときは、接待や仕事に差し支えが出ないようにと、一人で無理をして酒を飲む練習をしていたそうだ。たかが家族のために、たかが生まれてくる子供のために、自分の体質なんて変えられるわけないのに、私の父は本当に馬鹿だ。私は、昔の優しくて強くて馬鹿な父に戻ってほしかった。

私の願いが通じたのか、父の酒の量は順調に減った。トラブルもほぼなくなった。

以前より穏やかな時間の流れの中で、私の大学卒業が近づいた。このタイミングは逃すべきでないと思い、私は就職と同時に半ば強引に実家を出た。

本当はもっと早く出たかったけど、仕方ない。父のせいで出られなかったと言っても間違いではないけど、親のせいにするのはダサい。これが私のタイミングで、これが私の選択で、これが私の人生だ。

実家を出るとき、私は弟に

「家族だろうとなんだろうと、自分を傷つける人のことは嫌いになってもいいのよ。それに後ろめたさなんか感じなくていいのよ」と言った。

弟は困ったように笑いながら

「嫌いになんかなれないよ。それに俺はパパのことも実はそんな嫌いじゃないよ」と言った。

弟は私より何倍も優しかった。優しさは強さだ。かわいいだけだった弟が、いつのまにか私なんかより何百倍も強く優しくなっていた。


父からのLINE

実家を出て1カ月が経つ。

保険証が届いた今日、父からLINEが来た。

『まゆ子、元気か、日本中が令和の歴史に残る大変なことになっちまって、今年のゴールデンウィークは残念だったな。それでもまゆ子の会社は、マスクを送ってくれたり、初給料も出してくれたり、従業員を大切にしてくれそうないい会社で良かったな(^^)気を付けてな…。』

LINEは私が実家を出る数日前、無理矢理父のスマホにインストールさせた。また父が何かやらかしたときに、すぐに怒りのLINEが入れられるようにだ。

「ねえ見てよ、アル中おやじが一丁前に娘の心配なんかしちゃってるよ」と馬鹿にして、隣にいた彼氏にLINEの画面を見せようとした、その瞬間、急に目頭が熱くなった。

そうか。もうこれ以上パパを嫌いにならなくていいのか。心配されたら素直にありがとうと思えばいいのか。すごく当たり前のことがすごくうれしくて、突っ張ってた糸が切れたように涙が出た。もう嫌いにならなくていい。どんどん嫌いになっていくことに傷つかなくていい。

でもそれと同時に何かがすごく悔しかった。一緒に住んでいたときもこういう気持ちになれたら良かった。こういう気持ちで、一緒にほどほどのお酒が飲めたら良かった。

もう扶養も外れちゃって、もう一緒にも住んでない。もうそこまで近い距離にいる必要もない。だから私はもうこれ以上、父を嫌いになれないだろう。これからしばらくは、心配し合ったり感謝し合ったり、そういうことで繋がっていくしかない。私はそれがなんだかとても悔しいし、なんだかとてもうれしい。

突然止まらなくなってしまった涙に自分自身で戸惑いながら、キッチンで彼と二人分の夕飯を作った。今度実家に帰ったら、何か健康的な料理でも作ってあげようと思った。

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