8・6ヒロシマで何が起きたのか
広島は8月6日、79回目の原爆の日を迎えた。今年は、広島市が打ち出した平和記念公園の入園規制のもと、異様な雰囲気のもとで式典が営まれた。大きな混乱はなかったものの、前夜から原爆ドーム周辺に座り込んだデモ隊と、退去を求める市職員、機動隊らとの間では8時15分過ぎまでにらみ合いが続いた。公園全域への入園規制は、各所にある原爆犠牲者碑への参拝や、平和を求める市民の自由な行動を阻んだ。その一方で、式典参列のために設けた被爆者・遺族席には500席を超える空席ができるなど、例年にない光景が生じた。
広島をヒロシマでなくす動き
このところ、被爆地広島では、「広島をヒロシマでなくす」動きが続く。「これ以上、被爆者をつくるな」「そのためにも世界から核兵器をなくせ」――そんな被爆地の願いをねじまげ、核兵器の「役割」を認める広島に変質させる動きだ。その震源地はどこにあるのか。今年の8・6であらわになった「平和公園の変貌」を通して考えてみたい。
今年の8・6前後の岸田政権の動きから見えてくるものがある。被爆の日を控えた7月28日、日米両政府は外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)を都内で開いた。
米国の核の傘をありがたがる岸田首相
米側は、在日米軍を再編し「統合軍司令部」を新設すると表明。これまで横田基地においていた在日米軍司令部は基地の管理権しか持たなかったが、統合軍司令部には在日米軍の作戦指揮権を与えるという。日本側は、陸海空3自衛隊を一元指揮する「統合作戦司令部」を24年度末までに立ち上げると応じた。まさに日米が「一つの軍」になることで、「敵基地攻撃能力」態勢の構築に乗り出した。
この日は、「核の傘」による「拡大抑止」に関する初の日米閣僚会合も日本側の求めで開かれた。核兵器廃絶を訴える日本が核兵器の使用を前提にした拡大抑止を求めるのは、事実上の「核保有国」宣言と言ってもおかしくない。
岸田文雄首相は6日の式典のあいさつで、「核兵器のない世界」の実現という言葉を4回も繰り返した。そのために「国際社会を主導していく」とも断言した。しかし、7日付中国新聞は社説でこう書いた。「米国の差し出す『核の傘』をありがたがっていて、核廃絶の議論を主導できるのか」「被爆者7団体が連名で首相に提出した要望書は怒りに満ちていた」と。
まだある。岸田首相は式典翌日の7日、自民党憲法改正実現本部の全体会合に出席してこう述べた。「憲政史上初の国民投票にかけるなら、緊急事態条項と合わせ、自衛隊の明記も含めて国民の判断をいただくことが必要と考えている」「8月末を目指して議論を加速させていただきたい」
核兵器廃絶を訴える広島を変えたい
8・6をはさんだこの動きの中に、日本政府の本音がはっきり表れている。自らの体験をもとに核兵器の廃絶を求め続ける被爆地を変えてしまいたいのは、彼らなのだ。
昨年5月に開かれたG7広島サミットをきっかけに、真珠湾と広島平和記念公園との「姉妹公園協定」が突然結ばれたのも、この流れと符合する。
いよいよ来るところまで来たな、と思う。「NO NUKES」「NO WAR」を叫ぶヒロシマを、原爆を投下した米国とは仲良くする広島に変えてしまいたいのだ。「核兵器のない世界」をいつまでも言い続けても構わない。しかし、日米両政府が進めている「戦争準備」に真っ向から反対する広島は許さない。
そんな日米両政府の姿を見つめることなしに、広島という被爆都市のありようを考えることはできないのではないか。(JCJ広島支部 難波健治)
締め出された平和・核兵器廃絶の訴え
今年の8・6広島は、平和記念式典前後の4時間、平和公園全域にわたって入園規制が敷かれた。式典は、公園の南半分中央部にある原爆死没者慰霊碑の前でいつも通り営まれたが、公園の北東端にある原爆ドーム周辺の広場では、規制に反対して前夜から座り込んだデモ隊と警官、市職員のにらみ合いが8時15分の黙とうまで続いた。このため、例年行われる、戦争反対と平和の実現を誓って地に横たわる市民のダイインや、うちわ太鼓をたたきながら祈る僧侶の読経などは、公園外に場所を移さざるを得なかった。手荷物検査を実施する6カ所の公園入り口周辺では、戸惑う被爆者や家族連れらの姿があった。
「岸田首相・米・イスラエル参加の『戦争式典』を許さないぞ」。座り込みに続き未明から始まった原爆ドーム前集会がスローガンの連呼や演説を繰り返す中、午前5時になると、市職員が「滞留は市公園条例違反。退去してください」と呼びかけ始めた。やがて警官に交代。「県公安条例違反の無届集会をやめて退去しなさい」「これは公園管理業務に対する威力業務妨害です」と繰り返した。
市と警察が退去命令の法的根拠として挙げたのは市公園条例と県公安条例の違反、威力業務妨害罪の3つ。
しかし5月7日に全面的な入園規制を発表して以来、市市民活動推進課は一貫して「法的根拠はない」「市民の方々へのお願いにすぎない」と問い合わせに繰り返してきた。
行政法が専門の田村和之広島大学名誉教授は言う。「公園の全域を式典の会場と『みなす』という、ありえないことを前提にして打ち出した規制だが、どこから見ても式典会場としての使用実態がない。このような規制こそ、都市公園法・市公園条例違反だ。フェイク(嘘)まで弄して公園の自由利用を制限しようとした目的は何なのか」と指摘する。
原爆ドーム前の「攻防」は原爆投下時刻8時15分の黙とうが終わるまでにらみ合いが続き、座り込んでいたデモ隊はデモ行進に出発した。
このあおりを受けたのが、1981年から40年以上も原爆ドーム前広場で原爆投下時刻に「ダイイン」をしてきた約50人の市民たち。メンバーはやむを得ず、電車通りを挟んで原爆ドームの反対側にある遊歩道で「反戦平和」を訴えた。また、日本山妙法寺の僧侶約30人も、同じように場所を移し、うちわ太鼓をたたいて読経しながら「核兵器のない世界の実現」を祈った。
平和公園への入園規制の影響を受けたのは、原爆ドーム前での行動を予定していた人たちだけではない。老いた被爆者や付き添いの家族たち、8・6の朝の平和公園の空気に触れようと訪れた内外の人たちも、予想外の「公園封鎖」の実態を目の当たりにして戸惑いを隠さなかった。
朝5時半、息子夫婦と一緒に広島市北部にある家を出て公園に着き、市が設けた「専用通路」で慰霊碑参拝をすませた女性の被爆者(91)は帰り道、「毎年手を合わせる供養塔に行きたい」と息子にせがんだ。でも、市が設けた「通路」を外れて、園内を自由に動くことはできない。市職員からは「6時半まで待てば、手荷物検査を受けて再入園し供養塔にも行けますよ」と言われたが、1時間も先のことであきらめた。
6時半からの手荷物検査を受けて園内に入るためにゲート前にできた長い列。なぜか、閉鎖された入り口もあって、園内に入ることさえままならなかった、と訴える人たちもいた。
そして8時、式典が始まった参列者席で何が起きていたか。地元紙中国新聞は、なぜか翌々日の8日付紙面で報じている。「(式典)会場の参列者席の一角が空席になった」「少なくとも約500席が空いていた」「一方で、着席できずに立ち見する人も(いた)」。入園規制に問題があったとは書いていないが、読者は気が付いたに違いない。
さて、「法的根拠もなく市民にお願いしているだけ」の広島平和記念公園の8・6全面規制だが、来年はどうなるのか。ヒロシマを取り巻く世界の状況と日本政府の動向を見たとき、規制強化は必至だ。被爆地からこの流れに抗する大きな議論を巻き起こしていこう。(JCJ広島支部取材班)
自由に入れなくなった平和公園
2024年8月6日の平和公園は、黄色いリストバンドをした人たちであふれた。広島市が午前5時から9時まで入園者全員に持ち物検査を行い、それに合格した人にリストバンドを渡して入園を許可した。横断幕、たすき、ゼッケンや拡声器などの「表現手段」を持ち込もうとした人は入園を断られたと聞いている。長い間、8・6の平和公園を見ているが、おそらく初めての事態であろう。
私はこの日、午前4時半に原爆ドーム前に出かけた。中核派などが広島市の規制に抵抗して、前夜の10時から座り込みをし、午前7時からの集会を決行、デモ行進をする計画だったからだ。大きな騒乱が起こらないように願った。権力が規制し、それを弾圧と抗議して運動団体が抵抗する、実力排除で騒乱が起こる、それを理由にまた規制が強化される悪循環。こういうことにならないように、事実を伝えようと思った。日本ジャーナリスト会議広島支部の有志の行動であった。
二、三百人と思われる運動団体とそれを上回る警察官、市職員、警備会社社員が3時間以上、にらみ合い、騒然としたが、実力排除は行われず、8時15分の原爆投下時には運動団体側は原爆犠牲者に黙祷し、警察の「ガード」のなか、デモに出発していった。ただ、深夜から早朝にかけて大音響で演説が繰り返されたので、近隣の人たちは迷惑しただろう。「視察」に来ていた市議たちによって、さらなる規制強化が市議会で議論されることになるだろう。運動団体の幹部は事前に「警察と衝突はしない。沖縄辺野古基地闘争のように、機動隊によってごぼう抜きされる」と言っていたが、警察は実力行使をしなかった。私たちジャーナリスト会議などの「今回の規制は憲法21条の表現、集会、言論の自由侵害に当たる」という抗議を無視できなかったのではないか。座り込み、演説を繰り返すだけの集団を実力で排除する法的根拠が不足していたのだろう。もっと現実的にみれば、平和公園全域での入園規制でも、中核派などの「無届集会や妨害行為は防げない」という一面的な事実を世論にアピールする狙いがあったのだろう。これから、どのような規制強化が議論されるのか注視し、警戒しておかねばならない。
8時20分ごろから、平和公園を歩いた。そこで目にしたのが、冒頭に書いた黄色いリストバンドを付けた市民の姿だった。これが核兵器廃絶を願い世界から戦争をなくすリストバンドならハッピーなことだが、市が強行した手荷物検査を受けて「合格」した人たちなのだ。なぜ8・6平和公園に来るのに手荷物検査をするのか。被爆者の中には抗議して帰った人もいたというが、まっとうな感覚である。私は規制の始まる前に公園に入っていたので手荷物検査は受けなかったが、ほぼ全員がリストバンドしているなかで、ひとりだけそれがないのは妙に目立ってしまう。これが今回の規制拡大の目的の一つかもしれない。平和式典を円滑、安全そして厳粛に行うために、許可した市民しか平和公園には入れないのである。 いったいなんのための式典なのか。
広島市は、平和記念式典に市民団体の反対意見を押し切ってイスラエル大使を招待した。ガザで市民に無差別攻撃をしている国の代表を招くと不測の事態も起こりかねない。米国ではトランプ氏も銃撃され、日本でも安倍元首相は殺され、岸田首相にも爆弾が投げられた。警察にとって8・6平和公園の厳重警戒は絶対にやらねばならないことだった。平和公園はピリピリしていた。警察車両が各所に配置され、機動隊員が隊列を組んで行進している。その中を黄色いリストバンドをした市民が行き交う。「平和」という言葉には似つかわしくない光景がそこにはあった。来年もこれが繰り返されるのか。もっと規制が強化されるのか。8・6平和公園が市民には縁遠いものになってしまう。これこそが、核兵器に固執する人たちが狙っていることではないのか。2024年8月6日の平和公園を歩きながら私は暗い気持ちになった。でも黙ってはおられぬ。軍拡をやめ、戦争をやめ、核兵器をただちに廃絶しなければ、人類は絶滅する恐れがかつてないほど高まっている。
(JCJ広島支部 藤元康之)