vol.583 「◯◯に寄り添って」とか「寄り添った◯◯」という表現が嫌いです。(稲田)2024/7/1
「◯◯に寄り添って」とか「寄り添った◯◯」という表現が嫌いです。最近は特に行政やメディアが使う印象。政府の答弁なんてこればっかり。受け手側がこれを言うのは最悪やむなしとしても(そう感じたのなら仕方がない)、作り手側やサービス提供側が安易にこれを言うのは好きじゃない。ああ、思考停止宣言をするのねと思ってしまいます。
「◯◯に寄り添って」は便利な言葉なので、受け手側も使いやすいんですよね。星野源のラジオを聴いて流石だなあ…と思うのは、リスナーからの「星野さんの寄り添った◯◯に救われました」といった感想に謝意を伝えつつも、「自分は寄り添ってはいない」という姿勢を明暗ともに伝えているところです。
「◯◯に寄り添って」という表現が苦手
特に作り手側やサービスの提供側が言うべきではない
この感覚はきっと広く同意されないだろうと思いますが、個人的には大切な要素なので記録として残しておきました。誰もが自由を担保するために、個と個同士の主体者であるために大切な感覚だと思います。
個と個同士がきちんと立つことは体力も気力も使うし、誤解や衝突も生まれたりして大変だけど、ここをあやふやにするとどんどん足腰が弱ってしまう。相手を敬うことと相手を子ども扱いして弱体化させるというのは真逆の事象で。大人ならちゃんとやろうぜという領域の話だと思います。
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