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朝井リョウさんの『正欲』をマイノリティの人が読んでみた

朝井リョウさんの『正欲』という本を読んだ。とある人が読んでいると教えてくれたので読んでみた。
冒頭から声出して笑って、最後は没頭するように読んだ。
その感想を書いてみる。ネタバレ含めて書くので、読み終えた方やネタバレ大丈夫な方、読まないだろうなという方などは続きを読んでもらえればと思います。

最初にざっくり言うと、マジョリティの人には別に読んでもらわなくて良いかなと個人的には思うが、マイノリティの人には少しオススメかもしれない本ですね。共感出来たり、そういう色々が上手く言葉になっているのが気持ち良い感じはあるかな、と。特に「普段の雑談における恋愛の話は好きじゃない」的な人には共感できる部分が多いかな、と。

amazon の上位レビューとかはマジョリティ側の人が書いてるんだろうな、という印象。なんかズレてるけれど、マジョリティの人にはそういう風に読めるんだね~という感じ。

(適当に書き殴ったら5,000文字超えたので、適当に読んでくださいw)

多様性とは

この本は、「”多様性”って言葉はそんな簡単な言葉じゃないだろ!!」みたいなことを書いている。結局、一般社会は多数派の多数派による多数派のための社会であり、”多様性”という言葉では語れないレベルの多様性が現実には存在しているのに、それらには到底考えも及ばないような想像も出来ないような人たちがまた何か言ってるな、と思ってしまう人たちが存在しているという話。多様性なんて言葉では救われないような人がいて、救われなくてしょうがないと諦めて生きている人もいるのに、厄介なお節介な人も多くて、本当に生きにくい世界だな!!!と。

きっと、この本を読んだ多数派の人の感想は「分からん」「こんな知らない世界があったのか!面白い!」みたいな事なんだろうと思う。アニメや小説など、フィクションだけで知ることが出来る自分の知らない世界の面白さ、みたいな。知らんけど。

自分は少数派だとか、自分は人とは違うと思って生きている人には、共感する部分が多くて面白い作品かもしれない。共感できるが故に辛くてしんどい作品かもしれない。
自分はどちらかというと人とは違うと思って生きてきたタイプだし、所謂マイノリティの人たちとのコミュニティに一時期入ってそういう知り合いも居たりするのだが、読んでいて言語化出来ていなかったことが言語化されている面白さや嬉しさもあり、最後は本当にのめり込む様に読んだ。面白かった。

人との繋がり

話の 1つの軸として「人との繋がりはやっぱり大事」みたいなところに着地している部分がある。なんか、結局そうなのかな〜と思ったり、やはり面倒だなと思うし、何とも自分の中ではまだ煮え切らない部分ではある。

別の軸として、結局1人の方が安全に静かに生きられる、という読み方も出来るかなとも思うわけだが。

一般的な物語の多くが人との繋がりを良いものとして扱っていると思う。1人で生きる派よりも、 2人以上で生きる派の方がマジョリティということなんだろう。それが恋愛的なものであったり、仲間的なものであったりする訳だが。
そういう意味ではその点については、マジョリティ側で着地した感じの終わり方な気がしていて、そっか〜という感想。いや、両方に読めるからどっちでもいいのかな、分からん。

少なくとも、一人の方がリスクは少ないとは読めるが、一人の方が幸せ!みたいなことは書かれてなかったな、と。

恋愛派というマジョリティ

この本の中ではある種の共通の理由によって、人との恋愛に興味がない人の生きづらさについて語られている部分が多くある。

その部分については、自分もめちゃくちゃ共感できる。本当に、人は恋愛の話が好きだな、と。えっちな行為自体の話が多い、というような意味合いの台詞もあったのだが、そこらへんは自分はめちゃくちゃ避けてきたおかげか、接点のあった人達の傾向のおかげか、あまり実感は無い。そんな話全然したことない。したくもないので、そんな飲み会ばかりだったら本当に参加したくなかっただろうと想像するだけで反吐が出る。

日常の雑談での恋愛話率が高いのは、人間という生き物の特性上、仕方が無いことかなと諦めてはいる。
人が他人に、特に異性に興味を持ち、そういう行為をしなければ人間という種は保たれない。

そんなことも考えると、恋愛派ではない人たち、恋愛に興味がない人は自分が少数派だと実感する機会は非常に多い。
ただ割と最近の世の中には、恋愛の話をしなくて良い世界もそれなりに存在しているのではないかと思う。いわゆる”推し”という文化は、恋愛派ではない人達の世界の言葉だと思う。そういう世界が増えてきたのは、恋愛派ではない人たちにとっては良いことであるし、人間という種にとっては滅亡の危機でもあるのかもしれない。人間という種の話は個人的にはどうでも良い。絶滅するならすれば良いし、どうせ地球ももう長くはないさ。知らんけど。

何をどこまで調べたことがあるか

例えば、自殺をどこまで本気で調べたことがあるか、考えたことがあるか。
自分は、方法論についてはまだ本気で調べたことは無いな、と思う。何歳になったらしぬつもり、みたいなことは考えたことはあるし、決意した記憶もある。まあその年齢は越えて今もこう note なんて書いているわけだが。

だが、例えばマイノリティだとそういうことを本気で考える可能性が上がるみたいなことはあるのかもしれないな、と思った。いわゆる、”普通に”生きることが他の人より困難なのである。
”普通に”雑談することが、マジョリティの人たちは楽しめることが、マイノリティでは苦痛でしかないのである。日常における人との会話、というのはプラスの意味でもマイナスの意味でも効果の大きいものだと思う。それが楽しいか苦しいか、それだけでも生きていくことのハードルの高さには雲泥の差がある。

自分がマイノリティだと気付いた時、他のマイノリティについての興味で調べてみる、みたいなこともある。
所謂フェチ、みたいなものが世の中には理解が追い付かないほどある。

そういう世界を知っているか否か。そういう想定理解が追い付かないものが世の中に存在しているのだと認識出来ているか否か。
そういうところでも想像力には雲泥の差があるように思える。

今回のこの本を読んで「そんなフェチがあるのか!!知らなかった!!面白い!!」と思えた人は、そういう人生を歩んできたということだ。「あるあるw」と思えた人が世界には沢山いたはず。「あるあるw」と思えて面白かったし、本当にそういう人たちの生きづらさというのは想像を絶するものなのだろうな、と分からないなりに思いをはせる。

分かりやすいことを言えば、人を痛めつけることや苦しめることが大好きな人間もいるはずで、それは他人に危害を加えることでしか得られない、しかしそれは法律でも道徳でも”常識”でも悪いこととされているのが今の世界である。
多様性を認めるとして、その人はどうやって生きていけば良いと言うのか。

「そんなやつは消しとけばよい」というのならば、そのラインはどこに引くのか。その発言をした人自身のちょっとした特性の1つが世界的に削除されるべき特性だと別の誰かが決めてしまったら、などの考えは及ばないのだろうか。人には色々な趣味嗜好、好き嫌いがあるはずで、その 1つを拾って声を大にして「こんな社会不適合な性質を持っている人が存在していていいのか!!理解できない気持ち悪い!!消えろ!!」って、何も考えずに感情だけで語るのか。それが何も考えて無さ過ぎるが故の善でも悪でもないバカな発言だとして、それを言われた側が我慢しろと言うのか。

おわりに

自分は割と顔面の肉が重力に負けることすら相手に申し訳ない気がして、笑って知らない振りしたり気さくに適当に話合わせて済ませる場合も多い。あんまり世の中にどうなってほしいとかないし、どっちかと言えば自分でどうにかするからほっといて欲しいタイプだし。今回は久々に本を読んでそういう想いを思い出しちゃって、感想書いてたら溢れてきちゃった感じですねw

割と自分はマイノリティとは言え、マジョリティな面も多く持っている方だとは思うので、めちゃくちゃ楽な方のタイプのマイノリティだとは思いますが、そんな自分でもめちゃくちゃ共感出来て面白かったな、という感じの本でしたね。読んで良かった!!

(補足)amazon の上位レビューについて

勝手に amazon の上位レビューに物申したくて書く。

この物語の梃子になっているのは、登場人物たちと読者の間に成立している「小児性愛は〈悪い性欲〉である」という隠れたコンセンサスだ。

そんなことは無い気がする。何らかの欲について、正しいとか良いとか悪いとか、そんなことは関係ない。
youtube の規制がどうこうとか、そういう意味ではあるのかもしれないけれど。

実はこの物語の中で、彼らの対物性愛についてマジョリティが「直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じる」シーンは一度もない。

これは、それを隠し続けて生きているからだ。当事者たちが。また、隠しきれずに捕まった人は器物破損等で実刑になり、学校でニュースが取り上げられ、それを聞いたマジョリティの人たちが
「でもキチガイは迷惑じゃなぁ」
と話している。これはまさに嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じているシーンである。

小さい頃から、自分は人とは違うなと感じて生きてきて、その特徴と同じ人が捕まってキチガイ呼ばわりされている状態を知り、やはりこの特徴は隠し続けて生きていくしかないんだな、と決意をより一層固める。
そして、一生隠して生きていこうかなと思うのだが、それはそれで辛く、最後の最後で他人を信用してみて共通の人と集まろうと思ったら、運が悪い出来事に巻き込まれる。そして、マジョリティならば言い逃れることもできたかもしれない環境で、マイノリティが故に出来ない絶望。もうずっと感じて生きてきた絶望をまた味わうのだ。

だが現代のLGBTQIA+運動は、アセクシュアルやアロマンティックのように「性的な欲望のない人」や「性的欲望とパートナーシップを結合させて生活を構築する意志のない人」も配慮と社会的受容の視野に入れている。

多様性を賞揚する人々が今後も「解像度」を上げていけば、いずれ彼らの対物性愛が〈正欲〉の側に包摂される可能性は充分あるのだ。

そんな話じゃない。多様性を語っている人たち、を凶弾したい訳では無いし、何度も本でも書かれているように、理解され、包摂されたい訳じゃない。

筆者はこの物語のハイライトで、結局は多様性賞賛派ではなく、田吉というステレオタイプな超保守的人物に主人公たちを執拗に非難させることで『自分の中にある分からないモノ、結局つかめないモノの象徴』への社会の無理解・差別・排除などを表現することを選んだわけで、ここも「多様性を賞揚する社会の欺瞞」という本書のモティーフとうまく折り合っていないように感じる。

上記でいうステレオタイプも非難しているが、それ以上にステレオタイプなのに多様性という言葉を知って、分からないなりに知ろうとして寄り添ってくる人の方が面倒だ、という話は本の中でも出てくるし、その気持ちもめちゃくちゃ分かる。
それは、論理的に何かを凶弾するためにどうこうではない、単純に「めんどいな」と生きていて思うことが多々ある。そういう人種がいるというだけの話でもある。

「多様性を賞揚する社会の欺瞞」を物凄く限定してレビューを書いている気がするが、おそらくその前提がズレている。
多様性多様性言ってる人たちの事だけを指しているのではなく、そういうドラマが全国ネットで放映され、色々なメディアでそのインタビューとかがされているという世間の風潮、それは言っている人だけでなくメディアがそれを受け入れ(ようとし)、何も知らないマジョリティまでもが「多様性は大事(知らんけど)」と発言している最近の世界全体の流れに辟易している、ということであれば共感できるマイノリティの人は存在する。
その流れ全体の社会の欺瞞の話をしているのだ。きっと。
マジョリティ視点で「マイノリティA がマイノリティBをなんか言ってらあw」って次元で他人事のように読んでたら、そうなりそうな感想。

結局、マジョリティには理解できない話だから、顔の肉が重力に負けて何も言わないんだよマイノリティは。
こんだけ色々書いても何も分かんないんだろうが、これを書いたのはマジョリティに向けてじゃないから良いのだ。
ただイライラして書いただけだし、マイノリティの人には共感してもらえる部分もあるだろうから良いのだ。

マジョリティの人のレビューのせいでマイノリティの人がこの本を読まなくなってしまうというのは勿体ないと思ったので、色々書いたのもあるかも。知らんけどw


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