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草木と生きた日本人 藤の花

一 序


 「私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。」

 とは、わが国が生んだ偉大な数学者、岡潔の名言です(『春宵十話』角川ソフィア文庫)。偶然にも、スミレの花をたとへ話に用ゐてゐます。深いお話ですね。
 そして、そのスミレの花がもしかしたら第二十一代雄略天皇と初瀬の岡で菜を摘むをとめとを結び付けたといふ、いささか飛躍したお話を前回、書かせていただきました。
 スミレは春の花、美しく可憐な花です。『万葉集』の時代、いくつも歌に詠まれ、古へ人に愛されました。
 そして、江戸時代末期、大阪の坐摩神社の神官であり、安政の大獄に倒れられた佐久良東雄先生は、

 あひ見むと わが思ふいもは 春の野の すみれのはなに 似てしありけり
 (会ひたいと、私が思ひを寄せる彼女は、春の野に咲くスミレの花に似てゐたのであつたよ)

と歌ひました。
 また、スミレの中にはツボスミレといふ名のものもあり、次のやうに『万葉集』に詠まれてゐます。

 山吹の 咲きたる野辺の つぼすみれ この春の雨に 盛りなりけり(巻八・一四四四)

 歌の意味は、「山吹の咲いてゐる野のつぼすみは、この春の雨の時にあひ、まつ盛りです」となります。高安女王の歌です。素敵な歌ですね。

二 藤の花


 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山 (巻一・二八)
 (春過ぎて、夏が来たらしいですね。白妙に輝く衣を干してゐますね、天の香具山に)

 五月頃になると、第四十一代持統天皇の御製が思ひ浮かびます。木々が青く色づき、爽やかな風と程よいあたたかさが、私どもに落ち着きを与へてくれます。
 当時は、春といへば正月から三月まででした。そして春が過ぎ、四月から六月まで夏が来ます。そして、春の終はりから、夏の始めの花の代表は藤の花でせう。
 藤は、『日本国語大辞典』によると、
「マメ科のつる性落葉木本。本州、四国、九州の山野に生え、観賞用に栽植される。幹は長さ一〇メートル以上に達し右巻きに他物にからむ。葉は一一~一九個の小葉からなる奇数羽状複葉。各小葉は長楕円形または卵形で、花期には黄緑色、長さ約四センチメートル。四~五月、淡紫色の蝶形花が長く垂れ下がる房となって咲く。果実は偏長楕円形。長さ一五センチメートル内外の硬い莢で、乾くと裂けて中の種子を飛ばす。つるは丈夫で古代から縄なわの代用にしたり、籠などの細工に用いる。シロバナフジ・アケボノフジ・ヤエフジ・クジャクフジなど多数の園芸品種がある。」
とあります。
 藤の花といへば、私は足利フラワーパークに咲くその盛りをただちに思ひ起こします。四月の終はり頃になると盛大に咲く藤の花は、私どもを驚かし、そして日々の心労を癒してくれませう。もし、万葉時代を生きた古へ人が足利フラワーパークに来たら何と言つたでせう。想像してみるだけでも面白いですね。
 古へ人は、スミレと同じく藤の花を愛しました。藤の花は、家紋にも用ゐられました。例へば、下り藤はよく知られてをり、その名の通り、藤原家と関係の深いものです。
 そして、藤の花はいくつも歌に詠まれ、後世に残りました。『万葉集』を見てみませう。

三 『万葉集』に詠まれた藤


 まづは、次の長歌を見てみませう。
 敷島の やまとの国に 人多に 満ちてあれども 藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を(巻十三・三二四八)
 (敷島の日本の国には、人が多く満ちてゐるけれども、藤の花が波打つやうに私の思ひがまとはりついて、若草のやうに思ひが離れないあなたに会ふことを願ひ、長いこの夜を明かすのでせうか)

 この歌は、巻十三に収められた長歌、相聞歌です。相聞歌とは、お互ひの心を通じさせる歌、恋人同士、家族同士で送りあつた歌です。思ひが藤の花のやうにまとはりつくと例へて用ゐてゐますね。好きな人を思ふ情熱的な相聞歌です。
 この歌のやうに、藤の花は「藤波」として多く詠まれてきました。『万葉集』の中には、藤を詠んだ歌が二十七首あり、藤波(藤浪)と表現したものが十八首あります。
 さうした藤を詠んだ歌の中でも、特に優れ、かつ美しいと私が感じてゐるのが大伴家持の次の歌です。

 霍公鳥と藤の花とを詠める一首 幷せて短歌
 桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 咲みまがり 朝影見つつ をとめらが 手に取り持てる 真澄鏡 二上山に 木の暗の 茂き谷辺を 呼び響め 朝飛び渡り 夕月夜 かそけき野辺に はろはろに 鳴くほととぎす 立ち潜くと 羽触れに散らす 藤波の 花なつかしみ 引きよじて 袖に扱入れつ 染まば染むとも (巻十九・四一九二)
 反歌
ほととぎす 鳴く羽触れにも 散りにけり 盛り過ぐらし 藤波の花(巻十九・四一九三) 

 それぞれの歌の意味は、「桃色の花が紅色に輝いてゐるやうな顔立ちの中に、青柳のやうな細い眉を笑ひ崩して、朝の姿を映しながらをとめが手に取る鏡の二上山に、木の下を暗くして茂れる谷間に鳴き声を響かせて朝、飛び移り、夕べのかすかな野辺にはるかに鳴くほととぎす。それが飛ぶと羽を振りながら散らして行く藤の花に心惹かれて、引き寄せて袖に扱き入れたことだよ。藤の花の色に、袖が染みるならそれも良い」となり、反歌は「ほととぎすが鳴く羽ばたきで散つてしまつた。盛りが過ぎてしまつたやうだ、藤の花よ」となります。
 歌の前半は、桃の花から二上山までは二上山を起こす序です。この序の中で、家持は妻である大嬢の姿を想起してゐるやうに感じます。そして、二上山からほととぎすを詠み、最後に藤の花を歌ひます。家持は、ほととぎすが鳴き、飛んで行く羽ばたきで散つた藤の花を惜しみ、袖に扱き入れたとしてゐるのです。
 袖に扱き入れるといふ表現がまた面白いものでせう。花や葉を扱き取つて、袖に入れる行為です。『万葉集』巻第八の冬の歌に、梅の花を袖に扱入れる歌があります。

 引きよじて 折らば散るべみ 梅の花 袖に扱入れつ 染まば染むとも(巻八・一六四四)

三野連石守の歌で、意味は「引き寄せて、折つてしまへば散るだらうから、梅の花を袖にしごき入れたよ。染みてしまふなら染みたでそれもよい」となります。古へ人が袖に扱入れたのかはわかつてゐません。

 この歌の中で、家持は三種類の草木を詠み込んでゐるのに気づきましたか。さう、藤の花以外では、「桃の花」と「青柳」です。

 この歌は、家持が越中守の時に作られました。越中守は、現在でいふところの富山県知事です。家持は花を愛し、いくつもの花を歌の中に詠み込みました。優れた「日本的情緒」の持ち主であり、その歌は私どもをして感動させ得るものです。彼の代表的な歌を三首、見てみませう。

 春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ(巻十九・四一三九)
 (春の苑に紅ゐの色が照り輝く。桃の花のよく咲く下の道に立つをとめよ)

 もののふの 八十をとめらが 汲みまがふ 寺井の上の かたかごの花
 (多くのをとめらが、入り乱れて水を汲む、寺井のほとりに咲くカタクリの花よ)

 秋風の すゑ吹きなびく 萩の花 ともにかざさず あひか別れむ(巻二十・四五一五)
 (秋風が葉の末に吹き靡いて伏す萩の花をともにかざしにすることもなく、お互ひ別れて行くのだらうか)

 それぞれに、桃の花、かたかごの花(カタクリ)、萩の花が詠まれてゐますね。どれも美しく、そして、けふまで受け継がれてきた名歌です。

 足利フラワーパークでなくとも、亀戸天神や春日大社、そして春日部の街でなどで藤の花、藤浪の美しさを堪能することができませう。
 私は、すでにその盛りを過ぎてしまひましたが、足利フラワーパークや春日部の街に咲く藤波、そして各地を旅する中で見る山野に自生する藤波を見るたびに、その美しさに感激し、岡潔のいふ「日本的情緒」を、そして古へ人が「思ひまつはり」、「花なつかしみ」と歌つたことを思ふのです。


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