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草木と生きた日本人 栴檀



一、序

 山吹の 花の盛りに かくの如 君を見まくは ちとせにもがも (『万葉集』巻二十・四三〇四)
 (山吹の花の盛りに、このやうにわが君を仰ぎ見ることができるのが千年も続いたらナア)

 大伴家持の歌です。君とは、橘諸兄のことです。
 前回、山吹の花についてお話ししました。ゴールデンウィークの旅行で、各地の山々に咲ける山吹の花を見た方もをられませう。
 私も、四月の終はり頃、岐阜県に出かけました。長良川鉄道越美南線の白山長滝駅の近く、長瀧白山神社(岐阜県)の境内で、今を盛りと咲ける山吹の花を見、その色付きを美しく感じました。
 今回は、栴檀の花についてお話しいたしませう。この時期に白く、そして美しく咲く可憐な花です。

二、栴檀

 まづはいつものやうに、『日本国語大辞典』の栴檀を見てみませう。

 「センダン科の落葉高木。四国・九州以西の暖地に自生するが、ふつう庭木・街路樹として栽植される。高さ七メートルに達し、樹皮は縦に裂ける。葉は二回または三回羽状複葉で長さ五〇~八〇センチメートル。各小葉は卵形または卵状楕円形で先がとがり、縁に鈍鋸歯がある。五~六月頃梢の葉腋に大型の複集散花序をつけ、淡紫色の小さな五弁花が群がって咲く。果実は長楕円形で五個の縦溝があり黄色に熟す。樹皮はジョウチュウの駆除薬に使い、果実をひび・あかぎれに用いる。材は建築・家具材になる。香木の栴檀とは別。漢名、楝。おうち。せんだ。あらのき。あみのき。」

 このやうにあります。また、「栴檀は二葉より香し」といふことはざがあります。「白檀は発芽の頃から、早くも香気を放つやうに、英雄・俊才など大成する人は幼時から人並みはずれてすぐれたところがあることのたとへ」といふ意味ですが、ここでいふ栴檀は白檀のことです。
 白檀はインド原産で、素敵な香りを放つことはよく知られてゐませう。

 栴檀は、古い時代には「あふち」と呼ばれました。平安時代には清少納言が『枕草子』の中で、「木のさまにくげなれど、楝の花いとをかし」と評価しました。
 しかし、源平の争乱期には、壇ノ浦の戦ひで捕へられた平宗盛と清宗の首をかけた木として『平家物語』にあらはれます。この故事により、江戸時代のあたりまで獄門にかけられた罪人の首をかける木としてよく思はれませんでした。

三、『万葉集』における栴檀と山上憶良

 栴檀は、『万葉集』では前に記したやうに「あふち」、現代の読みでは「おうち」と詠まれました。そして、その代表的な歌は山上憶良によつて作られました。
 憶良のことは以前、

 秋の野に 咲きたる花を および折り かき数ふれば 七種の花 (巻八・一五三七)

 萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花 (巻八・一五三八) 

と詠んだ人といふことをたびたび紹介しました。
 今回のお話しは、かつて記した杜松のところと重なるところがありますが、よりくはしく見ていきませう。なほ、杜松のところでは、栴檀は白檀のことと記しますが、白檀ではないことを訂正し、改めます。失礼いたしました。

 さて、憶良は、四十二歳で遣唐使に任命され二年後に帰国しました。五十七歳で伯耆守に。さらに、六十七歳で筑前守となつて、九州に赴任します。この時、大伴旅人に出会ひ、歌を交はし合ふ関係になりました。
 旅人が大宰帥として九州に赴いたのは神亀五年(七二八)のことです、時に旅人六十四歳の頃でした。彼は最愛の妻を神亀五年(七二八)六月二十三日に失ひました。この時に旅人は、

 世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(巻五・七九三)
(世の中が「空」と知つた時、いよいよもつて悲しいものだ)

と作り、自身の悲しみを歌にしました。そして、この時すでに筑前守であつた憶良は旅人に同情し、「日本挽歌」を七月二十一日に旅人に捧げたのでした。「日本挽歌」は長歌一首と、五首の反歌で成り立つてゐますが、そのうちの反歌から三首を見てみませう。

 悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを (巻五・七九七)
 (悔しいことよ、かうなるとわかつてゐたなら、国中を見せてあげたかつたものを)

 妹が見し あふちの花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに (巻五・七九八)
 (妻の見た栴檀の花は散りさうだ。悲しみの涙はいまだにかれさうにないのに)

 大野山 霧立ち渡る 我が嘆く おきその風に 霧立ち渡る (巻五・七九九)
 (大野山に霧が立ち渡つてゐる。私のつくため息によつて、霧が立ち渡つてゐる)

 憶良は、このやうに旅人になり代はり、旅人の立場に立つて悲しみに寄りそつたのでした。この挽歌の反歌に「あふち」、すなはち栴檀が詠み込まれてゐます。この点に注目してみませう。
 憶良は、旅人自身になりきつて「日本挽歌」を作りました。そして、その中で「妻の見た栴檀の花は…」と歌ひました。もちろん、これは憶良の想像でせう。とはいへ、栴檀の花が何故詠まれたのでせう。
 私は、敢へてここで思ひを巡らせてみたいのです。前に、旅人は次の歌を作つたことを紹介しましたね。

 妹として 二人作りし 我が山斎(しま)は 木高く茂く なりにけるかも (巻三・四五二)
 (妻と二人で作つた庭は、木が高く茂つてきたナア)

 また、かつて杜松のところで、私は次のやうに書きました。

 「妻と二人で作つた庭園。妻の植ゑた梅の木。そしてその庭園には、杜松もあつたことでせう。さう、むろの木は旅人の邸の山斎にもあつたのです。きつと杜松とも深い思ひ出があつた。だから、旅人は鞆の浦で涙と共に歌を詠んだのでせう。確実な証拠はありません。」

 妻と「二人作りし 我が山斎」。ここには、杜松はもちろんのこと、あふちの花もあつた。あつたことを、そしてあふちの花との思ひ出を憶良は知つてゐた。だから、「妹が見し あふちの花は 散りぬべし…」と歌つたのでせう。この歌を送られた旅人は、妻を思ひ泣き、そして己を知る者、つまり憶良によつて慰さめられたことでせう。
 いふまでもなく、研究者ではなく一歌人の想像で、確実な証拠は何一つありません。

 『万葉集』に詠まれた栴檀の花をもう一首、見てみませう。

 吾妹子に あふちの花は 散り過ぎず 今咲ける如 ありこせぬかも (巻十・一九七三)
 (吾妹子に会ふ、あふちの花は散り果ててしまはず、今このときに咲いてゐてくれないものかナア)

 この歌は誰が作つたかわかりません。「会ふ」と「あふち」の音によつて、上下をつなげてゐる点が特徴です。
 栴檀の花は、『万葉集』に用例は少ないものの、山上憶良によつて哀切きはまりない挽歌となり、私どもの先祖によつて千年を超える時を歌ひ、読み継がれてきました。憶良の挽歌は、妻を亡くした旅人の慰めとなり、同時に現代を生きる私どもにも感動と、栴檀の美しさを伝へるものでせう。
 私は、野川公園に咲ける栴檀の花を見たとき、時代と場所は異なれども、情深き憶良と、妻を思ひ泣く旅人の姿を見た心地がしました。
 栴檀はまさに今が盛り。お読みになつた皆さまも、公園の木々に注目してみてはいかがでせうか。

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