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東京23区内の”森”を探索しよう その①


国木田独歩の随筆「武蔵野」は、1890年代、現在の東京都西部の丘陵地帯(武蔵野台地)に広がっていた”武蔵野の雑木林”の情景を描いた文学作品。その中に、こんな一節があります(↓)。

”昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく……これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲(あまぐも)の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気(すいき)を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜(もり)にかがやく。”

秋の初めの雨上がり、緑が薄まってきた森の林冠を日光が透過する様が情緒的に描かれています。文章の端々から、林冠の柔らかな質感が伝わってきますから、このときの独歩はクヌギやコナラが優占する落葉広葉樹林を観ていたのでしょう。
しっかりとした枝葉の天井が形成されているのだけれど、林内が真っ暗になるほどではない。若すぎず、かといって高齢でもない、壮齢の樹々が立ち並んだ里山林。そんな景色が想像できます。

クヌギ・コナラの森。19世紀まで、武蔵野台地はこんな森で覆われていたのだろう。
山梨県北杜市にて。

ところで上の文章、どこの景色を描写しているのかというと、なんと現在の渋谷にあたる地域。国木田独歩は、1896年の春から秋まで渋谷(当時は渋谷村)に住んでおり、その頃に見た景色を随筆に書き起こしていたのです。

現在の渋谷、青山通り。

ご存知の通り、現在の渋谷は、世界有数の人が密集した地帯。スクランブル交差点では、1回の青信号で3000人が通過するらしく、”世界一混雑する交差点”と呼ばれています。そんな土地が、たった130年前まで、壮齢の樹々が生い茂る雑木林で覆われていた……。”武蔵野”の記述をまるまる信じるとこういう解釈になりますが、にわかには信じ難い話です。

しかし実際に、1880年代に当時の帝国陸軍が作成した地図を確認すると、渋谷村のまわりに「雑木林」や「茶畑」、「杉林」が広がっていたことが記されています。明治初期の渋谷の谷には、草木の緑で満たされた、古き良き日本の田園風景が広がっていたのです。

1880年代と、2024年の渋谷の地図。それぞれほぼ同じ範囲を示している。
1880年代の地図には、あちこちに茶畑や雑木林、杉林の表記がある。

今日の東京23区は、980万人の人口を抱える世界都市ですが、現在の範囲まで都市が拡大したのは1950年代のこと。それ以前は23区の内側にも、他の日本の地方部と変わらない、長閑な農村地帯が存在していました。雑木林や竹林、田畑が入り組んだ里地里山が、首都の内部に食い込んでいた時代まで、ほんの70年ほどしか遡らなくてよいのです。

こういった都市としての歴史の浅さゆえか、現在でも23区内の至るところに、里地里山の面影がおぼろげに残っています。例えば世田谷区や大田区には、”樹海”と称される複雑怪奇な路地裏が広がっていますが、これは農村時代の畦道がそのまま街路に転用された歴史を反映しているのです。

1950年と、2024年の杉並区下高井戸の地図。いまでは住宅が密集している下高井戸も、
1950年の時点では田畑の中に家屋が点在するだけだった。

街のレイアウトをよく観察しながら都内を歩くと、かつての東京の地に広がっていたであろう里山の自然の痕跡を、微かに感じ取ることができます。そんなとき、ふと疑問に感じるのです。
「23区内に、自然林が残っている場所は存在するのかな?」
現在は家屋やビルで埋め尽くされている23区内も、有史以前は、森か原野で覆われていたはず。その頃の景色が保存された区画は、2020年代の現在もどこかに残っているのか。
いくつかの文献やグーグルアース、地形図を頼りに、全力で探してみました。

都市が建設される前の東京には、どんな景色が広がっていたのか?


東京23区の地形は、東と西で大きく異なります。

23区の東側は、”東京低地”と呼ばれる低地帯。付け替え前の利根川や荒川など、関東平野を旅してきた大河が一堂に会して江戸湾へと注ぎ込む場所で、開発前は広大な湿地帯が広がっていました。
一方23区の西側は、”山手”と呼ばれる丘陵地帯。武蔵野台地の突端部分で、細かな谷や尾根が複雑に入り組んだ地形が広がっています。渋谷、世田谷、鶯谷など、「谷」がつく地名は山手に集中しており、一般的に言われる「坂が多い東京」のイメージはこのエリアの地理からきています。

東京23区内の地形の高低差を、色分けして誇張した地図。東側の東京低地は、平坦で単純な地形だが、西側の山手には谷が入り組んでいる。国土地理院”電子国土”の地図を加工して作成。

もともと東京23区の一帯は、人間が利用できるような土地ではありませんでした。東京低地は氾濫原で、川の流路が頻繁に変化していましたし、山手は火山由来の関東ローム層に覆われていて土壌が痩せており、農業には全く不向きな土地でした。
それゆえ徳川家康の入府(1590年)以前の江戸は小規模な城下町にすぎず、その周囲には溢れんばかりの自然が広がっていました。

東京低地の湿地帯を覆う、クヌギやハンノキ、アシが生い茂る沼沢林。山手の丘陵地帯に広がる、コナラやクヌギの里山林と、茅の草原……。東京の街の歴史は、そんな”原野”からスタートしたのです。

歌川広重「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」。1857年に描かれた浮世絵。この絵が、いつの時代の風景なのかは不明だが、描かれているのは現在の江東区深川周辺。東京現代美術館があるあたりだが、少なくとも16世紀以前までは広大な湿地が広がっていた。


高級住宅街の中の森


もちろん2024年の現在では、16世紀の江戸に広がっていたような原野はとっくに姿を消し、住宅地やビル街へと改変されています。
特に、地形の凹凸が殆ど無い東京低地では、17世紀半ばに幕府が湿地の埋め立てを始めて以降、ムラなく急速に開発が進みました。そうして出来上がったのが、現在の墨田区、江戸川区、葛飾区のあたりの下町。急激な開発の歴史の中に、森が残る余裕なんて無かったのでしょう。現在その界隈に、まとまった面積の自然林は存在しません。

「東京の残存植生(奥田重俊著)」によると、開発以前の東京低地には、クヌギやハンノキ、アシなどから構成される湿地性の森が広がっていたとのこと。だいたいこんな感じの森。
奈良県宇陀市、龍王ヶ淵にて。

…となると、森が残っている可能性が高いのは山手。地形図や文献を頼りに、山手線の西側沿線を重点的に踏査し、森を探してみることにします。
最初に目を引いたのは、品川区の高台。実は1969年に、国立科学博物館が東京23区内の自然林を探す調査を行ったことがあるのですが、そのレポートには「品川区の上大崎、五反田周辺には、自然度の高い植生がいくつか存在する」という記述があったのです。

しかし50年以上前の調査ですから、今もこの情報が正しいのかどうかは正直怪しい。それに、品川区の高台は高級住宅街で有名なエリアです。きっと、スネ夫の家みたいな豪邸がいくつも立ち並んでいて、その眼前をBMWやベンツが行き交っているのでしょう。そんな小綺麗な街並みと自然林が共存している姿が、全然想像できません。
そんなわけで、当初ぼくは国立科学博物館の調査結果をあまり信頼していなかったのですが、レポートに掲載されている土地を航空写真で確認してみると、確かにこんもりとした緑の塊が写っているではないか。

品川区の高台の、自然度が高い植生(国土地理院の航空写真を加工して作成)。

写真から伝わってくる林冠の質感が、公園に植栽されている樹の”緑”とは明らかに違います。1本1本の樹の枝張りが、植栽木と比べて段違いに大きく、密な枝葉が森の蓋を閉ざしています。人間に飼い慣らされた樹木が、こういった立ち振る舞いをすることはまずありません。これは自然林か、それに準ずる森なのでは。
しかしそんな森が、品川みたいな大都会で生き残っていけるものなのか。一体この”緑の塊”の下には、どんな風景が広がっているのか。
現地に確かめに行くことにしました。

その②へ続く





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