月に操られた、命のゆりかご ~マングローブの生態~ その②
その①から続く
マングローブ樹種たちの社会
石垣島の西海岸、名蔵川(なぐらがわ)の河口には、名蔵アンパルと呼ばれる巨大な干潟が広がっています。
「アンパル」というのは、現地の言葉で「網を張る」という意味。
「重税に耐えかねて島外に脱出しようとする農民を捕らえるべく、役人が河口に大きな網が張っていた」とか、「漁師たちが大きな網を張って魚を獲っていた」など、名蔵川には網にまつわる伝承がたくさん伝わっており、それが地名の由来なのだろうと推測されています。
簡単に網を運び込めるような浅瀬が、延々と広がる土地に、まとまった量の淡水が流れ込んでいる。これは、マングローブにとっても理想的な立地です。
現在名蔵アンパルには、面積にして66ha、国内有数規模のマングローブが広がっており、その類稀なる希少性からラムサール条約登録湿地に指定されています。道路からのアクセスも簡単なので、樹木観察にぴったり。
曇天の中、石垣市街から原付を走らせ、現地に向かいました。
干潟に降りると、ヤエヤマヒルギの集団が、個性的な支柱根を披露して出迎えてくれました。
システマティックに設計された支柱根を、四方八方に向けて乱射する、挑戦的な樹姿。樹のはずなのに、どこか動物味を感じる外見で、今にも歩き出しそうです。
ヤエヤマヒルギをはじめとするヒルギ科の樹木たちは、日本のマングローの代表格。水中に沈む林冠、蛸足の支柱根…などなど、観光客が喜びそうな、いかにもマングローブらしい景観を作り出すのが得意で、みんなからチヤホヤされています。なんとも気の利いた樹種で、いつも分かりやすく南国の情緒を演出してくれるのです。
彼らの独特な樹姿が目に入れば、たとえ樹木に詳しくなくても、亜熱帯の風土を体感できるのではないでしょうか。
日本には、3種類のヒルギ科樹種が分布しますが、皆それぞれに個性があります。
蛸足の支柱根を愛用し、モコモコとした可愛らしい樹冠を頭に纏うのがヤエヤマヒルギ、高木に育ち、干潟に分厚い樹冠を被せたのち、地表部で膝根(しっこん、逆V字型の支柱根)を張り巡らせて、薄暗く湿った森を作るのがオヒルギ。葉っぱも樹形も小ぶりで、どこか控えめな印象があるのに、寒さをこらえて本州のすぐ南まで分布を広げてしまうという気の強さを持ち合わせたメヒルギ……。
川の流路に近づいていくと、泥の上で寝っ転がって、ボサボサと気の抜けた枝葉を伸ばす低木に出会いました。ヒルギ科の面々が、持ち前のガッツを発揮して逞しい幹を立ち上げる中、日曜日のお父さんのような樹姿を披露し、泥の上でくつろぐマイペースぶり。
彼の名前はヒルギダマシ。ヒルギ科とは全く別の分類群(クマツヅラ科)に属する種で、いまいちパッとしない印象の樹ですが、分布はかなり広く、乾燥地帯である紅海や、マングローブ分布の世界最南端であるニュージーランドでは優占種となります。
余談ですが、オークランド国際空港(ニュージーランド)の敷地内で、ヒルギダマシの大群落を見たときには、なんとも懐かしい気持ちになったのを覚えています。
実はマングローブの社会には、かなりシビアなヒエラルキーがあります。
当たり前ですが、汽水域の湿地においては、海から遠ざかるほど、土壌中の塩分濃度は低くなっていきます。耐塩性のあるマングローブといえど、やっぱり植物。本音をいえば、塩分濃度が低い土に根を下ろしたいのです。
それゆえ、海から離れたニッチでは、非常に倍率の高い競争が繰り広げられ、これに適応できない樹は海側へ、海側へと追いやられてしまいます。結果的に、マングローブの組成は、海からの距離に応じて規則的に変化していくのです。
最も海から遠いニッチを獲得したブルジョワ階級は、オヒルギ。なるほど、彼らの樹姿からは余裕が溢れ出ていて、悠々自適な暮らしぶりが伺えます。すらっと高く幹を伸ばし、強固な林冠を持ち上げる大木たち。陸上の樹木とほとんど変わらぬ立ち振る舞いです。
オヒルギよりも一段階海側で生育するのは、メヒルギ。このあたりから、冠水頻度が高くなり、潮の満ち欠けにともなう水流が強くなるので、樹体を支える支柱根が必要になります。メヒルギが愛用しているのは、スカート型の支柱根。いくつもの支柱根を束ねて、幹の根元に纏わせることで、体重を支えているのです。
一方、メヒルギよりももう一段階海側に生育するヤエヤマヒルギは、前述の通り奇抜なデザインの支柱根を愛用しています。建設現場の足場のような、複雑な構造物を築き上げて、ぬかるむ泥の地面に必死にしがみついています。こうでもしないと、体ごと水流に持っていかれるのでしょう。
ヒルギ属樹種の枝を観察すると、必ずと言って良いほど枝の下部には黄色く変色した葉がついていますが、コレは塩分の一時貯蔵庫。彼らは、根から余分に吸収してしまった塩分を古い葉に貯め込み、それを落とすことで体内の塩分を除去しているのです。
ヤエヤマヒルギのニッチよりもさらに海側のゾーンでは、塩分濃度が2%を超えます。分量を間違えたときの味噌汁とほぼ同じ土壌条件。塩生植物であるヒルギ属にとっても、これは流石にしょっぱすぎます。
そこで登場するのが、先ほど泥の上で寝そべっていたヒルギダマシです。彼の葉には、塩腺(えんせん)と呼ばれる排塩器官が取り付けられており、そこから直接塩が吐き出されるのです。晴れた日にヒルギダマシの葉を観察すると、白い塩の結晶が乗っかっていることもあります。
卓越した排塩メソッドを持って、海への最前線で必死に生きるヒルギダマシですが、時折心痛む場面に出くわすことがあります。ヤエヤマヒルギによる”カツアゲ”です。
ヒルギダマシが定着した場所では、時間が経つにつれて土壌中の塩分濃度が低下していきます。ヒルギダマシの根が、川の上流から運ばれてきた土砂や泥を堰き止め、蓄積させていくためです。樹齢数十年のヒルギダマシの周囲には、塩分濃度が低く抑えられた、樹木にとっては誠に快適な土壌がこんもりと積もっているのです。
しかし殆どの場合、ヒルギダマシがその恩恵を受けることはありません。ヤエヤマヒルギが、ヒルギダマシの茂みの中に侵入し、彼らが形成した土壌を横取りして成長するためです。
せっかく快適な土壌を貯蓄してきたのに、それをあっけなくヤエヤマヒルギに取り上げられてしまったんでは、ヒルギダマシがあまりにも可哀想です。しかしここは、数多の樹木の欲望が交錯するマングローブ。ヒルギダマシのような、マイペースな樹種には、どうしても理不尽な出来事が降りかかってしまうのが現実なのです。
そもそも、彼らが高く育たず、地面に寝そべっているのは、土壌中の塩分濃度があまりに高すぎて、満足に光合成ができないため。
つまり、ヒルギダマシは決してのんびり屋さんではない。栄養分を節約し、厳しい境遇でなんとか生き抜くために、やむをえず低木の生活スタイルを維持しているのです。さっき失礼なこと言ってごめんなさい。
海と共に生きる
塩性湿地という、特殊な環境を住処としているため、マングローブは皆、特殊な機構を自らの体に備え付けています。
たとえば、根っこ。
植物の根は、浸透圧(高濃度の水溶液と低濃度の水溶液が膜を隔てて隣り合って存在している場合、低濃度の水溶液から高濃度の水溶液に水(溶媒)だけが移動し、両者の濃度が均一になろうとする力)を用いて水を吸収しています。通常の環境下では、根の内部のイオン濃度は土壌中の水分のイオン濃度よりも高いため、自動的に根に水が取り込まれるのですが、塩性の土壌では話が違ってきます。土壌中のイオン濃度が根の内部のイオン濃度を上回っているため、まるっきり逆方向の浸透が起こり、根からどんどん水が出て行ってしまうのです。
多くの植物が塩を嫌うのも、まさにコレが理由です。
一方マングローブの根には、高濃度の浸透圧調節物質(アミノ酸、ポリオール化合物などの有機物や、カリウムなどの無機イオン)が充填されていて、根の内部のイオン濃度は土壌中の塩水よりもさらに高くなっています。それゆえ、彼らは通常の陸上植物と同じように水を吸収することができる。
浸透圧調整物質を合成するには、多大なエネルギーを必要としますが、これは呼吸で賄わなくてはなりません。マングローブが生育するような干潟では、土壌中の酸素濃度が極端に低いため、根を使っての呼吸は困難を極めますが、この問題もすでに解決済み。
実は彼らが愛用する支柱根は、呼吸根としても機能するのです。
支柱根(呼吸根)の表面には、皮目(ひもく)と呼ばれる小さな穴があいていて、そこから酸素が取り込めるようになっています。支柱根の内部はスポンジ状の通気組織で満たされていて、吸引された酸素はそこを通じて地下の根まで供給されます。この機構のおかげで、泥に埋もれた根っこにも滞りなく酸素が受け渡されるのです。
ヒルギダマシのように、長時間水没する樹種は、呼吸根そのものに光合成の機能が取り付けています。樹全体が水没した後も、光がある限り呼吸根が自前で酸素を確保し、根に供給してくれるわけです。
う〜む、ヒルギダマシ、知れば知るほどしっかりした樹木じゃないか……。
綻んでいく、海と陸の縫い目
マングローブが、自らの祖先が辿ってきた進化の道筋を逆走して、”海”という環境に身を乗り出したのは、いまから7000万年前のこと。それ以来、彼らは種子を海流に載せることで世界中に分布広げていき、いつしか赤道の周囲に”マングローブ・ベルト”が出来上がりました。その過程で、上記の目を見張るような適応戦略が構築されていったのです。
マングローブの支柱根は、海と陸をきめ細かく縫い付けているようにも見えます。陸からの汚泥や土砂は、マングローブによって受け止められ、海の水質が保たれる。海からの波もまた、マングローブによって受け止められ、陸の侵食が防がれる。
大地がマングローブという巨大な”縫い目”によって縁取られることで、海と陸、両方の生態系が守られるのです。
マングローブは、まさしく”生命のゆりかご”で、数多の生物種に棲家を提供しています。世界で漁獲される魚のうち30%はマングローブで育成されている、というデータもあります。養分が豊富につまった土壌が、複雑に入り組んだ支柱根によって堰き止められることで、生産性の高い生態系が形作られるのです。
人間もまた、マングローブの恩恵を受けている生物種のひとつであり、マングローブそのものが持つ経済的価値は、1haあたり2000ドル〜9000ドルにのぼると試算されています。
しかしながら、マングローブを取り巻く現状は芳しくありません。
ISME(国際マングローブ生態系協会)のレポートでは、マングローブは地球上の他の森林タイプと比較して3〜5倍の速さで減少していると指摘されています。1985年〜2005年のあいだに世界で消失したマングローブの総面積は、3万6000平方km(九州とほぼ同じ)。2020年代に入ってからも、世界のマングローブ面積は縮小を続けており、その減少率は毎年1%と試算されています。
この原因は、人間による乱開発。中学社会の教科書に、エビの養殖池を造成するために伐採された東南アジアのマングローブの写真が載っていたのを覚えていますが、あのエビの主要輸出先は日本なのです。私たちも、無関心ではいられません。
元来、海と陸の境界線というのは、もっと”曖昧”なものでした。今でも、原生的な自然環境が残された海岸では、砂州や干潟、塩性湿地など、海と陸の間に巨大な緩衝地帯が横たわっているのが普通です。特にマングローブの生育域では、森がそのまま海中に潜り込んでいるのですから、陸の輪郭は甚だしくぼやけてしまい、”海岸線”という言葉は地図の中だけの存在になります。
この”曖昧さ”のおかげで、海と陸という、全く性質の異なるハビタットが資源や生物種を交換できるようになり、両者の生態系が育まれていく…。海岸部の自然環境は、本来そういう設計のもとで胎動していたのです。陸と海の”縫い目”は、私たちが思うよりもずっと緻密に作り込まれた構造なのです。
文明の発展以来、その”縫い目”は急速に綻んでいきました。
人口密度が高い地域では、コンクリートで覆われた護岸壁、もしくは水産物の養殖場、農地が造成され、自然状態の海岸線はどんどん姿を消していきました。人間が一方的に決めた陸の輪郭が、曖昧さを許さない強固な”壁”となって海と陸を分断するようになったのです。今日のマングローブは、その煽りを強く受けています。
あの夜、石垣島・平久保半島の県道で感じた”潮の香り”は、陸の輪郭が朧げになったときに、マングローブが発する”シグナル”。海と陸の心地よい関係性が、今日まで連綿と続いていることの証です。
そう考えると、あの重く湿った、直感的には不快な匂いに、妙な愛おしさと若干の寂しさを覚えます。
だって、あの”シグナル”を受け取れる場所が、今の世界にどれくらい残っているのか、分からないのですから。
参考文献
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