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ジヴェルニーのモネ~〈睡蓮〉誕生

パリから北西へ約80キロ、ノルマンディーの入り口に位置する人口300人の小さな村、ジヴェルニー。
モネは人生の後半をこの村で過ごし、多くの作品を生み出した。中でも特筆すべきは、今や彼の代名詞ともなっている、「睡蓮」の連作だろう。
彼が、人生の最後の約30年間に描いた〈睡蓮〉の絵は、約300枚が現存しており、「印象派」を取り上げた展覧会には、必ずと言って良いほどそれらのうちの一枚が展示される。
だが、なぜ、彼はそのように夥しい数の睡蓮の絵を描いたのだろう?
ジヴェルニーとモネの関わりを起点に、その答えを追ってみよう。

①モネとジヴェルニー

モネがジヴェルニーに引っ越して来たのは、1883年5月だった。
それまでの彼は、絵がなかなか売れず、貧困に苦しみながら、借家を点々とする日々だった。
が、40を過ぎて、ようやく認められ始め、経済的にも余裕が出始めた彼は、家族と共に落ち着ける場所を探していた。
そんな中で見つけたのが、小村ジヴェルニーのもう使われなくなった農園の端に建つピンク色の漆喰を塗った横長の家だった。
これ以上、美しい場所も、家も見つけられないだろう。
そう確信した彼は、早速家主と契約を結び、翌月には家族を連れて移り住んだ。そして1890年には、家と土地を正式に買い取り、正式に自分のものとしたのである。

②モネと2つの庭

若い頃から、庭作りに興味を持っていたモネに取って、家と共に広大な庭を手に入れたことは、大きかった。
早速、家族総出で木を伐り、草を抜き、土を耕すと、各地から花の種や苗を買い集め、研究を重ねながら、庭の中に配置していった。

クロード・モネ、<モネの庭、アイリス>、1900年
オルセー美術館(パブリックドメイン)
(出典:Wikipedia)

広大な敷地内には、珍しい植物を育てるための温室が設けられ、植える花の種類や色、組み合わせ、配置まで、考えに考え抜かれた2列38区画もの花壇が並ぶ場所もあった。
こうして作られた、四季折々の花が咲き乱れるノルマンディー風の「花の庭」は、絵画にも匹敵するモネの重要な作品と言える。
が、彼の挑戦は終わらない。

1893年には南側に新たな土地を買い足し、新しく「水の庭」の造成に着手する。
今回は、睡蓮の浮かぶ大きな池を中心に、周囲には枝垂れ柳や菖蒲、竹、桜や水仙など日本の植物を配した日本風庭園にすることを構想していた。
池の造成のため、彼は近くのリユ川から水を引くことを計画していたが、川の水が汚染されることを恐れた村人たちとトラブルになってしまった。幸い知人が間に入って取りなしてくれたおかげで、何とか許可を得ることができ、2年後には完成した。
この「水の庭」で、彼が特にこだわったポイントの一つは、歌川広重の<亀戸天神境内>を参考に作った、太鼓橋とその上の藤棚だった。
彼の思い入れの強さは、1899年と1900年に、この「日本の橋」と池をモチーフにした連作を手掛けていることからも伺えるだろう。

クロード・モネ、<睡蓮の池、緑のハーモニー>、1899年
オルセー美術館(パブリックドメイン)
(出典:Wikipedia)

この〈睡蓮の池、緑のハーモニー〉画面の大部分は、副題にもある通り、後景のしだれ柳や両岸の草むらなど、様々なトーンの緑で占められ、空は全く見えない。
そして画面中央には大きなカーブを描く太鼓橋がくっきりと浮かび上がる。その両端は画面の端で断ち切られ、それが同じような緑の空間が画面の外にも続いていることを想像させる。
草いきれの匂いでむせかえりそうな空間の中で、澄み切った池とその水面に浮かぶ可憐な睡蓮の存在が清涼感を添える。
池の水面は、周囲の木々を反映し、水の冷たさまでもを伝えてくる。

クロード・モネ、<日本の橋>、1899年
ワシントン・ナショナル・ギャラリー(パブリックドメイン)
(出典:Wikipedia)
クロード・モネ、<睡蓮の池、バラ色のハーモニー>、1900年
オルセー美術館

この〈緑のハーモニー〉をはじめとする連作15点は、同じ場所から見た情景を描いているが、比べてみると、画面のサイズを変えたり、視点を少しずらして描くだけではなく、天候や時間帯などの条件による色の変化も捉えられているのがわかる。
まさに、モネがこれまでに積み重ね、磨き上げていた技術と観察眼の賜物と言えよう。

③究極のモチーフ、睡蓮

モネが池に浮かぶ睡蓮をクローズアップで描いたのは、1897年が最初だった。
その後、1899~1900年の連作〈睡蓮の池〉では、橋をメインにした風景の一部として、池は描かれた。
1903~8年、再び睡蓮の池のモチーフに取り組んだ時も、最初は対岸の岸辺や枝垂れ柳を描き込んだりもしていたが、徐々にそれらは消え、水面が画面のほとんどを占めるようになっていく。

クロード・モネ<睡蓮の池>、1904年
デンバー美術館(パブリックドメイン)
(出典:Wikipedia)
クロード・モネ<睡蓮>、1905年
ボストン美術館(パブリックドメイン)
(出典:Wikipedia)
クロード・モネ、<睡蓮>、1906年
シカゴ美術館、(パブリックドメイン)
(出典:Wikipedia)

どの作品を見ても、睡蓮の浮かぶ水面には、対岸の景色や空の色、雲が鏡のように映り込む。
しかし、夕方には水は橙色を帯び、風が吹けば、さざ波が立つなど、時間帯や気候など条件の組み合わせ次第で、幾通りもの見え方が生まれる。
そして、モネは「池の水面」を通して、光や天候、風の有無など、自身が長年風景画家として向き合い、追求してきた要素全てを表現したと言えよう
それを考えると、「睡蓮の池」は、彼にとって「究極のモチーフ」だったと言っても過言ではあるまい。

1908年、モネに白内障の兆候が現れ始めた。
さらに1908年には妻アリス、1914年2月には長男ジャンが亡くなり、立て続けの不幸にモネは打ちのめされ、ほとんど絵を描けないほどだった。
しかし、息子の死から3ヶ月後、睡蓮の咲く時期が来た時、彼は再び絵筆を手にする。
最大2メートルの大型のカンヴァスを池の岸辺まで持ち出し、ひたすら「スケッチ」を重ねたのである。
それは、現在オランジュリー美術館に展示されている「大装飾画」へと結実していく。全8点から構成され、高さ2メートル、総延長81メートルにもなる壁画群は、まさにモネの70年近い画業が凝縮された、彼の生の証、そのものと言えよう。

クロード・モネ<緑の反映(大装飾画より)>、1920~26年
オランジュリー美術館(パブリックドメイン)
(出典:Wikipedia)
クロード・モネ<朝(大装飾画より)>、1920~26年
オランジュリー美術館(パブリックドメイン)
(出典:Wikipedia)


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