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草木と生きた日本人

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執筆者:玉川可奈子/和歌(やまとうた)を嗜む歌人(うたびと)・作家 (画像:大宇陀 又兵衛桜)/月一連載
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草木と生きた日本人 をみなへし

一、序  あしひきの 山菅の根の ねもころに われはそ恋ふる 君が姿に (『万葉集』巻十二・三〇五一)  (あしひきの山菅の根のやうに懇ろに、私は恋するよ。あなたのお姿に)  前回のお話しは山菅、ヤブランでした。右の一首は、名も無き人の歌、しかし山菅も前からお話ししてきました草木、そして花と共に多くの古へ人に愛されてきました。  また、菅は、右の歌にもあるやうに、その根も歌に詠まれました。  菅の根の ねもころごろに 照る日にも 乾(ひ)めやわが袖 妹に会はずして 

草木と生きた日本人 山菅

一、序  わがやどに 蒔きしなでしこ いつしかも 花に咲かなむ よそへても見む  (わが家の庭に蒔いたなでしこは、早く花になつて咲いてほしい。恋しいあの方と思つて眺めてゐよう)  平安時代の歌人、伊勢の私家集である『伊勢集』に収められた歌です。彼女は三十六歌仙の一人、「百人一首」の、「難波潟 短き葦の…」の歌はご存知の方もをられませう。  前回、撫子の花をお話ししました。この季節に、その小さく、美しく咲く姿を見た方もをられるのではないでせうか。時は神無月、十月となりま

草木と生きた日本人 撫子

一、序  おきて見んと 思ひしほどに 枯れにけり 露よりけなる 朝顔の花  (朝起きて見てみようと思つたところが、枯れてしまつたよ。露よりもはかなき朝顔の花よ)  『曾丹集』、または『新古今和歌集』の歌です。曾丹は、曾禰好忠のことです。丹後掾を長く務めたことから、さう呼ばれました。少し変はつた人でありつつも清新な歌を作りました。  ゆらのとを 渡る舟人 かぢを絶え 行へも知らぬ 恋の道かな この『百人一首』の歌はよく知られてゐませう。これも優れた歌ですね。  甲

草木と生きた日本人 朝顔

一、序  さ百合花 後も会はむと 思へこそ 今のまさかも うるはしみすれ (『万葉集』巻十六・四〇八八)  (小百合の花のやうに、後に会はうと思ふからこ、今のこの瞬間を楽しみたいと思ひます)  大伴家持の歌です。前回、家持そしてその叔母である坂上郎女の歌を紹介し、古へ人が百合の花をどう見てゐたのかを記しました。  私も、真岡鐵道のSLもおか号の車窓から、真岡や茂木の野に咲ける姫百合の花の美しさをたびたび見て、古へ人のことを思ひ起こしました。  梅雨も明けて、八月とな

草木と生きた日本人 百合

一、序  たまに貫く あふちを家に 植ゑたらば 山ほととぎす 離 れず来むかも (『万葉集』巻十七・三九一〇)  (ほととぎすがたまとして緒に通すせんだんの花を家に植ゑたのならば、山ほととぎすが絶えず来るでせうか)  大伴家持の弟である書持の歌です。  前回、栴檀の花、つまりあふちの花について紹介しました。その白く美しい花を、この季節に見た方もをられるのではないでせうか。私も、多摩の某所で栴檀の花を眺め、いにしへ人の感性や歌を思ひ起こしました。  いよいよ暑くなり、夏を

草木と生きた日本人 栴檀

一、序  山吹の 花の盛りに かくの如 君を見まくは ちとせにもがも (『万葉集』巻二十・四三〇四)  (山吹の花の盛りに、このやうにわが君を仰ぎ見ることができるのが千年も続いたらナア)  大伴家持の歌です。君とは、橘諸兄のことです。  前回、山吹の花についてお話ししました。ゴールデンウィークの旅行で、各地の山々に咲ける山吹の花を見た方もをられませう。  私も、四月の終はり頃、岐阜県に出かけました。長良川鉄道越美南線の白山長滝駅の近く、長瀧白山神社(岐阜県)の境内で、

草木と生きた日本人 山吹

一、序  あしひきの 山の間照らす 桜花 この春雨に 散りゆかむかも (『万葉集』巻十・一八六四)  (山のほとりを照らす桜の花は、この春の雨に散つて行くのだらうナア)  心楽しき桜の季節も終はりました。  屋戸にある 桜の花は 今もかも 松風はやみ 土に散るらむ (巻八・一四五八)  (私の家にある桜の花は今ごろは松風がはやく吹いて、地に落ちてしまつたでせうか)  右の一首は、厚見王の歌です。  私ども現代人も桜の花の風に散る姿を悲しく、そして寂しく思ふやうに

草木と生きた日本人 桜 下

一、序  桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋の盛りと 今し散るらむ (『万葉集』巻十・一八五五)  (桜の花はまだ散る時期ではありませんが、見る人の恋しさの盛りが今だと知つてゐて散るのでせうか)  前回のお話しでは、万葉の時代における桜の花について述べました。  高橋虫麻呂、そして若宮鮎麻呂らの素敵な歌は、今なほ私どもに共感をもたらしませう。  今年も桜の花は咲き、隅田川の川辺や京都の円山公園など桜の名所でその美しさを楽しみ、心を癒される方もをられませう。また、このお話し

草木と生きた日本人 桜 上

一、序  ももしきの 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここに集へる (『万葉集』巻十・一八八三)  (ももしきの大宮人は暇があるからでせうか、梅を髪にさしてここに集つてゐますねエ)  前回は梅の花についてお話ししました。  二月五日、東京では久しぶりに雪が降りました。雪の降る日、そして翌日の積つた雪、さらに雪と梅の花の咲く姿を見て、前に紹介しました、  我がやどの 冬木の上に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも (巻八・一六四五)  (私の家の冬枯れの木に降り積ちた

草木と生きた日本人 梅

一、序  住吉の 岸の松が根 うちさらし 寄せ来る波の 音の清けさ (『万葉集』巻七・一一五九)  (住吉の岸の松の木の根を洗ひつつ、寄せる波の音の清いことです)  誰が作つたかわからない歌ですが、住吉大社のあたりの海辺には、松の木が生え、そこに波が寄せる情景が歌はれてゐますね。  前回、松についてお話ししました。有間皇子の悲劇。そして宋の謝枋得の「雪中の松柏…」など、道徳的な意味で心ある人たちから大切にされたことなどを紹介しましたね。  また『万葉集』を開くと、次のやう

草木と生きた日本人 松

一、序  門ごとに 立つる小松に かざられて 宿てふ宿に 春は来にけり  (門前に、門松を立てて飾り付けて、家といふ家に春は来たものだナア)  頼朝に弓馬の道を説く剛の者にして悲恋の人、西行の歌です。  年が明けて、令和六年になりました。今年は昨年よりも心穏やかに、より平和にありたいものですね。  まだまだ寒い日が続きますが、旧暦では正月は春です。春といへば私は「万葉集』に収められた志貴皇子の御歌、  石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (『

草木と生きた日本人 尾花

一、序  よひに会ひて あした面なみ なばりのの 萩は散りにき 黄葉早続げ (『万葉集』巻八・一五三六)  (夜中に会つて朝は恥づかしさに顔を伏せてしまひました。なばりのの萩はもう散つてしまひました。黄葉よ早く続いておくれ)  縁達師の歌です。どのやうな人物か、わかつてゐません。  前回、黄葉についてお話ししました。皇族の方や、経歴のわからない謎のいにしへ人が黄葉、そして紅葉をいかに愛してゐたかが感じられたのではないでせうか。  いにしへ人とつて、秋の萩の花や黄葉は何

草木と生きた日本人 黄葉

一、序  磯の上に 立てるむろの木 ねもころに 何か深めて 思ひそめけむ (『万葉集』巻十一・二四八八)  (磯のほとりに立つてゐるむろの木の根のやうに、ねんごろに何故こんなにも心を深くあの人を思ひ始めたのでせう)  『万葉集』に収められた名も無き民の歌。そして、磯の上むろの木。この歌は、大伴旅人の歌、  鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも (巻三・四四七)  (鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、一緒に見た妻を忘れることはないでせう) が

草木と生きた日本人 杜松

一、序  玉に貫き 消(け)たずたばらむ 秋萩の うれわわらはに 置ける白露 (『万葉集』巻八・一六一八)  (玉に貫いて消えないでほしいものです。秋萩の枝の先に置いてゐる白露を)  この一首は、志貴皇子の御子、湯原王のお歌です。王は御父に継いで、素敵なお歌をいくつも作られました。この秋萩を詠んだお歌も見事です。  萩といへば他にも巫部麻蘇郎女といふ経歴のわからない謎の女性による、  わが屋戸の 萩花咲けり 見に来ませ 今二日だみ あらば散りなむ (巻八・一六二一)