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草木と生きた日本人

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執筆者:玉川可奈子/和歌(やまとうた)を嗜む歌人(うたびと)・作家 (画像:大宇陀 又兵衛桜)/月一連載
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記事一覧

草木と生きた日本人 山吹

一、序  あしひきの 山の間照らす 桜花 この春雨に 散りゆかむかも (『万葉集』巻十・一八六四)  (山のほとりを照らす桜の花は、この春の雨に散つて行くのだらうナア)  心楽しき桜の季節も終はりました。  屋戸にある 桜の花は 今もかも 松風はやみ 土に散るらむ (巻八・一四五八)  (私の家にある桜の花は今ごろは松風がはやく吹いて、地に落ちてしまつたでせうか)  右の一首は、厚見王の歌です。  私ども現代人も桜の花の風に散る姿を悲しく、そして寂しく思ふやうに

草木と生きた日本人 桜 下

一、序  桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋の盛りと 今し散るらむ (『万葉集』巻十・一八五五)  (桜の花はまだ散る時期ではありませんが、見る人の恋しさの盛りが今だと知つてゐて散るのでせうか)  前回のお話しでは、万葉の時代における桜の花について述べました。  高橋虫麻呂、そして若宮鮎麻呂らの素敵な歌は、今なほ私どもに共感をもたらしませう。  今年も桜の花は咲き、隅田川の川辺や京都の円山公園など桜の名所でその美しさを楽しみ、心を癒される方もをられませう。また、このお話し

草木と生きた日本人 桜 上

一、序  ももしきの 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここに集へる (『万葉集』巻十・一八八三)  (ももしきの大宮人は暇があるからでせうか、梅を髪にさしてここに集つてゐますねエ)  前回は梅の花についてお話ししました。  二月五日、東京では久しぶりに雪が降りました。雪の降る日、そして翌日の積つた雪、さらに雪と梅の花の咲く姿を見て、前に紹介しました、  我がやどの 冬木の上に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも (巻八・一六四五)  (私の家の冬枯れの木に降り積ちた

草木と生きた日本人 梅

一、序  住吉の 岸の松が根 うちさらし 寄せ来る波の 音の清けさ (『万葉集』巻七・一一五九)  (住吉の岸の松の木の根を洗ひつつ、寄せる波の音の清いことです)  誰が作つたかわからない歌ですが、住吉大社のあたりの海辺には、松の木が生え、そこに波が寄せる情景が歌はれてゐますね。  前回、松についてお話ししました。有間皇子の悲劇。そして宋の謝枋得の「雪中の松柏…」など、道徳的な意味で心ある人たちから大切にされたことなどを紹介しましたね。  また『万葉集』を開くと、次のやう

草木と生きた日本人 松

一、序  門ごとに 立つる小松に かざられて 宿てふ宿に 春は来にけり  (門前に、門松を立てて飾り付けて、家といふ家に春は来たものだナア)  頼朝に弓馬の道を説く剛の者にして悲恋の人、西行の歌です。  年が明けて、令和六年になりました。今年は昨年よりも心穏やかに、より平和にありたいものですね。  まだまだ寒い日が続きますが、旧暦では正月は春です。春といへば私は「万葉集』に収められた志貴皇子の御歌、  石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (『

草木と生きた日本人 尾花

一、序  よひに会ひて あした面なみ なばりのの 萩は散りにき 黄葉早続げ (『万葉集』巻八・一五三六)  (夜中に会つて朝は恥づかしさに顔を伏せてしまひました。なばりのの萩はもう散つてしまひました。黄葉よ早く続いておくれ)  縁達師の歌です。どのやうな人物か、わかつてゐません。  前回、黄葉についてお話ししました。皇族の方や、経歴のわからない謎のいにしへ人が黄葉、そして紅葉をいかに愛してゐたかが感じられたのではないでせうか。  いにしへ人とつて、秋の萩の花や黄葉は何

草木と生きた日本人 黄葉

一、序  磯の上に 立てるむろの木 ねもころに 何か深めて 思ひそめけむ (『万葉集』巻十一・二四八八)  (磯のほとりに立つてゐるむろの木の根のやうに、ねんごろに何故こんなにも心を深くあの人を思ひ始めたのでせう)  『万葉集』に収められた名も無き民の歌。そして、磯の上むろの木。この歌は、大伴旅人の歌、  鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも (巻三・四四七)  (鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、一緒に見た妻を忘れることはないでせう) が

草木と生きた日本人 杜松

一、序  玉に貫き 消(け)たずたばらむ 秋萩の うれわわらはに 置ける白露 (『万葉集』巻八・一六一八)  (玉に貫いて消えないでほしいものです。秋萩の枝の先に置いてゐる白露を)  この一首は、志貴皇子の御子、湯原王のお歌です。王は御父に継いで、素敵なお歌をいくつも作られました。この秋萩を詠んだお歌も見事です。  萩といへば他にも巫部麻蘇郎女といふ経歴のわからない謎の女性による、  わが屋戸の 萩花咲けり 見に来ませ 今二日だみ あらば散りなむ (巻八・一六二一)

草木と生きた日本人 萩

一、序  我がやどの 花橘は 散り過ぎて 玉に貫くべく 実になりにけり (『万葉集』巻八・一四八九)  (私の家の庭に咲いてゐた橘が、早くも散り果ててしまひ、玉として糸がとほせるほど実がなつてしまつたよ)  『万葉集』を編纂したと考へられる大伴家持が、橘の花を惜しんで作つた歌です。花、そして実まで詠まれてゐますね。  他にも、  我が背子が やどの橘 花をよみ 鳴くほととぎす 見にぞ我が来し (巻八・一四八三)  (大切なあなたの家に咲く橘の花がとても美しいので、そ

草木と生きた日本人 橘

一、序  橘の みをりの里に 父を置きて 道の長道(ながち)は 行きかてのかも (『万葉集』巻二十・四三四一)  (橘のみをりの里に父上を置いてきて、この長い道のりは行き辛いものです)  右の一首は、駿河国の防人である丈部足麻呂の歌です。「行きかてのかも」といふところに、東国の訛りが表れてゐますね。  前回は、続・東国人と花といふことで、防人歌を見てきました。東国人と、都人は同じ感性で草木を愛し、花に親しんでゐました。そして、その感性は今を生きる私どもも同じであり、防

草木と生きた日本人 続・東国人と花

一、序  恋しけば 来ませわが背子 垣つ柳 うれ摘みからし われ立ち待たむ(巻十四・三四五五)  「恋しくなつたらいつでも来てくださいね。私の大切な人。垣の柳の芽を摘み枯らしてしまふまで、私は立つて待つてゐませう」といふ意味のこの歌。  さう、この歌も東歌です。この歌には柳の木が詠まれてゐますね。柳の芽を積み枯らすほど摘んであなたを待つてゐますと詠む、実に情熱的な女性の立場の歌です。  前回は、『万葉集』に残された東国人の歌から、都人だけでなく、都から遠く離れた東国の人も

草木と生きた日本人 東国人と花

一 序  春へ咲く 藤のうら葉の うら安に さ寝る夜ぞなき 子ろをし思へば(巻十四・三五〇四)  (春の只中に盛んに咲く藤を覆ふうら葉ではありませんが、心安らかに寝る夜などない…。あの人のことばかり思ふと)  前回は、古へ人が愛し、歌に詠んだ藤の花についてお話ししました。すでに、藤の花の盛りは過ぎてをり、木々が青々と色付く季節になりました。  ところで、『万葉集』は主に都人の歌を収録してゐるのですが、実は都人のみならず都から見たら辺境の地といへる東国の人の歌も収められ

草木と生きた日本人 藤の花

一 序  「私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。」  とは、わが国が生んだ偉大な数学者、岡潔の名言です(『春宵十話』角川ソフィア文庫

草木と生きた日本人 一 若菜

一 記紀に見る草木  古くから、日本人は、草木を大切にし、草木と共に生きてきました。その事実は、『古事記』、『日本書紀』をはじめとする神典はもちろん、古へ人が愛読してきた『万葉集』や『古今和歌集』などの和歌文学にも明らかです。  たとへば、『古事記』を見てみませう。『古事記』の上巻、神代のことが記されたこの巻には、次の記述があります。なほ、以下に引用する『古事記』と『日本書紀』は、『日本古典文学全集』(小学館)によつてゐます。 「次に風の神、名は志那津比古神を生みき。次に