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落語【ねずみ】と国分町・外人屋考

国分町外人屋 【厚綿広至さん作成絵図】
仙台輪中とは
虎屋横丁の虎

仙台での立川志の輔師匠の独演会にて拝聴しました落語「ねずみ」の舞台は江戸時代の仙台の旅籠のお噺。そもそも、この落語の噺「ねずみ」は、三代目桂三木助が、意気投合した浪曲師の広沢菊春に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものと伝わっております。三代目桂三木助は「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年7月に初演。「竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の「ねずみ」、名工・甚五郎の逸話ものです。

江戸時代の仙台の旅籠町と云えば国分町【こっぷんまじ】から二日町にかけては旅籠が並び、国分馬市は、【上国分町馬市〜中国分町馬市〜下国分町馬市】として国分町で馬市の開催がされ、幕府、大名家、旗本や御家人、大名家家臣と、買える分際が馬市ごとに変わる決まりがあり、その度毎に旅籠は他国の馬市客で一杯になったと言われます。

その内、幕閣や大名家、大身の旗本らが宿泊したのが外人屋であり、仙台領では、他国の人々を外人と呼び、領国の人々と区別していました。

この外人屋には、参勤交代で領国に帰参したお館様や姫君など一族郎党が「仙台祭」の山車である渡物 〜わたしもの〜 (山鉾・山車)を見物するのも外人屋の二階からでありました。仙台東照宮の祭礼は領主も見物した城下をあげての行事で、藩の命令で町や裕福な商人が大型の山車(山鉾)をつくって出しました。

仙台領では、渡物とは山車や山鉾などの祭り屋台のことで、城下町の商人が作り、仙台領の村方が引き、担ぎました。年によって増減がございましたが神輿の前を数十台もの渡物が運行したことが伝わっています。それぞれの渡物には数十人の担ぎ手が引き回し、仙台東照宮を出発した神輿などの祭礼行列は、宮町の通りを進み途中、東照宮御旅所(現東六番丁小学校)に一旦到着、その後清水小路から田町、通町を経て、御譜代町などの氏子町を通りながら、お館様や一族のいる国分町外人屋の前を通りました。東照宮に戻るまで約10㎞ほどの行程で、所要時間は約7時間ほどでありました。
仙台輪中の街道筋は町人町と商家が並びました。町人町・商人町の屋敷は街道筋に面して建てられ、全て平屋となっており、二階から大名行列やお館様を下に見る様な建物は無く、ただ、一軒、国分町外人屋のみが街道筋の二階屋だったのです。

 旧住所にみる御宮町の「旅籠町」は遊廓跡に戦後、旅籠が営まれた為呼ばれた通称で、江戸時代には仙台東照宮の門前町として栄え、明治に入り旧仙台城下で営業を許されるようになった遊廓が、明治27年(1894)に宮町の一角,北一番丁通りに移転させられました。その後、旅館に改装したところが多く、「旅籠町」と呼ばれました。そのため、江戸時代に旅籠があった場所ではありません。

国分町と芭蕉の辻付近には近江商人の大店が並び、現在の二丁目から三丁目、二日町までの国分町通りは江戸時代には旅籠が多くあった地域で、馬市が開催され、その他に老舗の味噌醤油屋、お菓子屋、仏壇屋などが連なっていました。ですが、当時、落語の「ねずみ」のお噺に登場する旅籠「虎屋」が有ったわけでは無く、このあたりは現在、仙台一の飲み屋が連なる街です。当時は、商店や旅籠の並ぶ国分町と、武家屋敷【塩蔵:一番丁三丁目付近・糠蔵丁:一番丁四丁目付近】は蔵と武家屋敷の並ぶ街であり、現在の東一番丁と虎屋横丁に佇む辻標にある碑の裏に「長崎の医師、玄林が国分町東南角に薬種店を開いたとき、店頭に木彫りの虎を飾り、虎屋と称したことに由来するという」。と刻まれた虎屋横丁がありました。

【虎の置物が現存】「虎屋横丁」由来の置物公開へ
虎屋横丁のシンボルとして親しまれた、2016年11月から公開の木彫りの虎【撮影2016年8月23日、仙台市歴史民俗資料館】一部【河北新報社 記事より抜粋】東北一の歓楽街、仙台市青葉区国分町と縁が深い木彫りの虎の置物が、所有者から宮城野区の市歴史民俗資料館に寄贈された。置物は江戸時代、虎屋という薬店の店先に飾られ、「虎屋横丁」の名が付く由来になった。置物は宮崎市の戸部恵美子さん(当時93)が長年、所有していた。木製で高さ73センチ、奥行き70センチ。全体は黒っぽい色が塗られ、両目は透明な材質、牙は象牙で作られているとみられる。ひょろりと伸びた尻尾やユーモラスな表情に特徴がある。仙台市史などによると、江戸時代、東一番丁と国分町を結ぶ横丁に虎屋があり、店先に木彫りの虎を飾ったことから虎屋横丁の名が付いた。虎屋が廃業した後、国分町の有力者が所有し、明治天皇が1876年、東北を巡幸した際、置物をなでたため「御撫之(おなでの)虎」とも呼ばれ、話題を集めたという。鎌倉時代に渡来した中国・南宋人の作と言い伝えられ、木箱には「宋代作 神虎」と書かれている。その後、行方不明になったが1923年、仙台市青葉区旅籠町に住んでいた戸部さんの義父が購入し、長年自宅で保管した。自宅は東日本大震災で損壊。取り壊すことになったため、戸部さんは昨年、次女が住む宮崎市に転居。置物は7月、木箱や台と共に寄贈しました。

その置物の虎の虎屋と、落語「ねずみ」のお噺に登場する旅籠「虎屋」が結びついた訳では無いですが、立川志の輔師匠の独演会にて拝聴しました落語「ねずみ」の舞台となったであろう江戸時代の仙台領 仙台輪中の旅籠の街並みや、外人屋でのお館様とお姫様たちが観覧する仙台祭の「わたしもの」。幕閣や旗本、大名家のお馬役が闊歩した国分町「こっぷんまじ」に想いを馳せたいと想います。
幕末の戊辰戦争時には、榎本武揚や土方歳三が逗留した仙台国分町外人屋は、現在の国分町二丁目の金英堂薬局の向かいの、味よしラーメン屋さんのあった建物から南側に伸び、国分町通りから西側に奥行きを広く取った建物で、現在の芭蕉苑茶舗の手前まであり、相当な広さを誇っていたと云います。

仙台輪中の点線【安政時代の絵図】厚綿さん謹製

※仙台輪中 仙台領 仙台城下の範囲内の地を指す。城下と在郷の境は特に行政・司法の上からも厳密に確定しておく必要があり、城下絵図にもその境界線を点線、又は朱線で明示してありました。この境界に惹かれた囲線を輪といい、輪の中を輪中『わちゅう』と称しました。

読売新聞朝刊で連載され、単行本化された浅田次郎さんの小説「流人道中記」(上下巻、中央公論新社)はベストセラーとなっている。舞台は幕末の奥州街道。作中、国分町に玄蕃たちが滞在した外人屋(迎賓館)があったことが書かれている。


※厚綿 広至さんの国分町外人屋の絵図を引用させて戴きました!
グラフィックデザイナー、絵図師(常仙)、家紋姓氏研究家(京都家紋研究会会員・宮城スリバチ学会会長)



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