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新型コロナと、ヒーリングっど♥プリキュアと、僕と。

新型コロナウィルスに罹患した。
これを書き始めた今日が隔離4日目である。
最初に悪くなってからは漸次良くなっているので、待機期間後は問題なく出勤できそう。ただ、普段出来るはずのことが出来ない、したいことも出来ないというこの不自由さを考えれば、罹らない自衛をしてもし過ぎるということはない。

日がな一日自室に籠もっている訳だが、その間に最初の方しか見れていなかったヒーリングっど♥プリキュアを見ることにした。主人公が元々病弱という設定で、人の心や地球環境を蝕んでいく敵との戦いを描いた作品である。

この作品ほど、新型コロナウィルスに苦しめられたプリキュアシリーズはなかろう。感染拡大に係る就業規制で思うように制作が進められず、1ヶ月以上の放送休止と話数短縮の憂き目を見ることとなったのである。

パンデミックの狂想曲の中でこの内容を放送することになったという巡り合わせもそうだけど、プリキュアはいつも大切なことを教えてくれる。最近デパプリで久々にプリキュアにドハマりして見返してるだけの僕が知ったようなことを言うのは失笑を買いそうだが、少なくともこの数ヶ月で無印、SS、5、フレッシュ、スイート、ドキドキを見返した感想がそれである(単に好きなシリーズを見直しただけでもある)。

そんな中で初期シリーズを語るとかでなく、敢えて今更2シリーズ前のプリキュアを語る理由。それは、ここまで現代の問題にフェードインした作品でありながら、本作の終盤での主人公の行動が未だに賛否あり、その為に作品全体がつまらなく感じられるという意見が散見されるから。僕はネットの感想からその顛末を知った上で、5話程度見て「中々タフな問題に取り組むじゃないか」と感心すらあったので、最終的に賛否分かれる展開にどうやって進んでいったのかという点に興味を覚えた訳である。

以下、その辺りについて書いていくので、未視聴の方の閲覧は推奨しない。



「ダルイゼンの浄化」は非情か

敵キャラクターのダルイゼン。本編27話で主人公のキュアグレース、花寺のどかの体内にメガパーツを埋め込み、のどかからギガビョーゲンを取り出そうという奸計を図る。28話でのどかから生み出されたギガビョーゲンのケダリーはダルイゼンと瓜二つの見た目で、ダルイゼンは自身の記憶からも、元々自らを生み出したのがのどかであったことを思い出す。のどかが原因不明の病気で苦しんでいたのは、ダルイゼンが自身に取り憑いていた為であったのだ。

それ以降、のどかは自らが生み出してしまったダルイゼンが地球を蝕んでいる事に居た堪れなさと責任を感じるようになってしまう。自分がダルイゼンを、病気を受け入れないが為に地球そのものが病に冒されていく。それは果たしてプリキュアとして、人として正しい行為なのか。

「のどかは、どうしたいラビ?」

のどかに問い掛けるパートナーのラビリン。ラビリンはのどかの優しさと葛藤を受容しながら、のどかが苦しい思いをする必要はないと説く。言葉だけ取れば、傷の舐め合いの様にも見受けられる。しかし、のどかがプリキュアとしてだけでなく、一人の少女として病と必死で戦っているのを間近で見て来たラビリンが、これ以上のどかが一人で戦おうとすること、のどかが皆の為に苦しみを背負おうとすることを勧めるはずもないのである。

而してキュアグレース達は、弱味すら見せてかつての宿主に救いを求めていたダルイゼンを拒絶し、完全とは言えないまでも浄化することに成功した。最終的にそこで何らかの対話がなされるルートもあったかもしれないが、その前にダルイゼンはネオキングビョーゲンに取り込まれてしまい、地球を冒す病原菌の一部と成り果てたのだった。 

何しろ、今作に登場する敵幹部3名の中でも美形の少年キャラであったことから、和解とまでは行かずとも、ダルイゼンが改心し、のどかが彼をどこかで受け容れる決意をすることで生き永らえて欲しかったと思う人が多いのかもしれない。また逆に、のどかの身体にメガパーツを埋め込むという描写が女児アニメに相応しくないと感じた人もいたようで、彼を許したい側にも許したくない側にも腑に落ちない最後だというのが批判意見の大勢を占めている。

しかし、僕はこの点に関する作品の描写に不満はないし、批判意見で言われているような感想も持たなかった。
前提として、ビョーゲンズ達は「病原菌」であり、対話の概念を持たないもの。企画時点でそういった意図はなかったのだとしても、この対話の出来ない「病原菌」の恐ろしさは今や全人類が知るところであろうし、これに本当に打ち克つには菌を滅する他ないのだと多くの人が感じているだろう。ビョーゲンズも、プリキュアに浄化される際はその存在から滅ぼされている。
ビョーゲンズというプリキュアの敵を表すのに姿形が見えないものでは流石に戦いの画を作るのが難しいし、何も喋らずに攻撃してくる敵は尚恐ろしい(我々は今やそんな敵に四方八方囲まれて暮らしている訳だが)。プリキュアが戦うという構図を作るのに、敵が意識を持って人類を滅ぼそうとしている形にしなければ視聴者に理解させるのも難しいだろうし、何より「ただひたすらに人類を滅ぼそうとする敵」にプリキュアを対峙させるのは流石に荷が重過ぎると言わざるを得ない。

対話する、というのはある意味で許す余地を与える為のプロセスにもなり得るが、終盤でネオキングビョーゲンに吸収される事を悟ったダルイゼンはのどかに「助けてほしい」と命乞いをする。自身をプリキュアになる前から苦しめてきた存在――しかも、その正体は自分より生じた存在であり、それが自分達の世界や妖精達の世界を滅ぼそうとしている。対話によりダルイゼンを改心させ、のどか自身も病気を受け容れる……そんな物語の可能性を感じさせながらもダルイゼンは葬られることになった。結果だけ(もしくは、敵に全幅的に感情移入している状態で)見れば、のどかはビョーゲンズや自身を苦しめた病気そのものと向き合わず、一方的に滅殺した精神的成長の少ない少女と捉えることも出来よう。

しかし、先述の通りビョーゲンズ達は「病原菌」である。便宜上喋るキャラクターを与えられてはいるものの、本質的には対話出来ない存在であり、ダルイゼンが身勝手な主張ばかり述べて「助かって、あなたはどうしたいの?」というのどかの問い掛けには答えられないという描写が、病気というものを表していると感じる。則ち、病気はいくら人間が対話の余地を示そうと、歩み寄って共生しましょうなどという優しさを出すことはない理不尽さがあり、人間が健やかに生きていく上で必ず障壁になる概念であるという事実が作品の中に織り込まれたメッセージとして受け取れた。
ゆえに、ダルイゼンを始めとしたビョーゲンズ達が赦される事なく消し去られる事が本作におけるプリキュアの最終到達点なのだと、44話までの内容で視聴者は概観できるのである。

「独り善がりの正義」も愛せるように


最終回の45話。幹部およびネオキングビョーゲンを打倒し、ビョーゲンズ達を殲滅したと思っていたのどか達。ヒーリングガーデンに遊びに行ったら、人間の存在を快く思わないヒーリングアニマルのサルローが。サルローは、人間の生産活動により引き起こされる汚染や資源の浪費が、地球を癒やすヒーリングガーデンの負担になっていると述べ、それは則ち地球にとって人間がビョーゲンズと変わりない存在の証左であると指摘する。
人間として生きている事そのものを否定された様な気持ちになり落ち込むのどか達に、更に追い打ちを掛ける事態が。お土産として持ち込んだすこやかまんじゅうの容器に侵入していたナノビョーゲンが、まんじゅうを取り込んでメガビョーゲンに進化し、ヒーリングガーデンを荒らし始める。
図らずして最大の敵を倒したのにも関わらず、再び戦うこととなったのどか達。終わりなき戦いの予感に苛まれる。
そんな中、ラテが召喚した新しいプリキュアの参戦(ドキプリ以降のプリキュアをほとんどちゃんと見てないので分からないのですが、最終回で次シリーズのプリキュアが話の中で参戦するのって定番になってるんですかね?正直無理やり捩じ込んでる感じがしてあまり好きな演出ではない。ED後に「来週からは〜」って共演するのは好き)により希望を見出し、メガビョーゲンをお手当てすることの出来たグレース達。帰り際にテアティーヌに謝罪すると、「そういう時もある」と人間の行動に理解を示した。
人間が地球と共存していくのは、のどか達を含めた人類誰もがビョーゲンズと戦っていくことであると視聴者にも認識させた上での閉幕。45話は戦いとしては地味ながら、このシリーズで最も訴えたかった内容が集約された話ではなかっただろうか。
人間が生きていく中で、他方地球上では割を食っている生物がいることは確かである。ただ、人間はしばしばそれを忘れ、「人間の命さえあれば問題ない」と認識しがちである。
そうした人間の奢り、弱さという影の部分も表したのがビョーゲンズであったのだと、僕は理解している。

近年、精神疾患のいくつかの症状は、脳の機能が特定の物質の分泌の多少が原因であったと解明されつつある。
例えばうつ病では、ニホンザルでの実験において、内側前頭皮質の機能不全でうつ症状が引き起こされる事が分かり、抗うつ作用のあるケタミンを静脈注射にて投与したところ症状が寛解したことが確認されたという。
https://www.technologyreview.jp/n/2022/08/16/283606/

精神疾患はしばしば患者が周囲から「心が弱い」「怠けているだけ」などと、無理解による心無い言葉を浴びせ掛けられている。周囲にとっては、患者の言動が耐え難いものになり、距離を置く他に手立てがない状況もある。
自分の身近な存在が、見た目は特に悪いところがないのに気力が湧かないとか、励ましても何もできない様になってしまったり、まして自分を疑い敵意を以て対峙するような状況になったら、あなたはどのように感じ、どんな行動を起こすだろうか?
自分が大切に思う存在であればあるほど「何とかしてあげたい」と解決策を考えるだろうし、そうでなければないほど「関わりたくない」と自分から遠ざけようとするだろう。いずれにしても、病気というものに向き合う覚悟があるかどうかを試される機会になる。
のどかも当初は原因不明の病に冒されていた。両親はただのどかに寄り添い、回復を祈ることしか出来ない無力感に苛まれ続けていた。
のどかが最初にメガパーツを植え付けられた経緯は28話で描かれた通りなのだが、言うまでもなく病気がちになったのも、ひいて言えばのどかが回復した代わりにダルイゼンが生み出されたのも、のどかの責任では全く無い訳で。
病気というものは、なりたくてなる人は基本的に居ない。誰もなりたくないのに、どんなに避けていてもなってしまうのが病気なのだ。そこに対話は存在しないし、患者が泣こうが喚こうが赦されて治癒することはない。
だからこそ、誰もが病気という概念そのものに向き合わないといけない。病気は時に理不尽に襲い掛かり、身体や心を蝕む。それが生きる希望すら奪うこともある。
「生きなければならない」。このお題目こそが人間の傲慢さの最たるところなのかもしれない。地球を苦しめる存在でありながら、人間として生まれたが為に生きる事の大切さを説かれる。「死んではならない」と。それが例え、自ら命を閉じてしまいたいくらいの絶望的な状況であっても。絶望の淵にいる人には、その淵を覗いたこともないような人からの励ましは空虚に感じられるものだ。
例えば、植え付けられたメガパーツの成長をのどかの意思で留めることが出来たとして、それでビョーゲンズ達の暴走を止めることが出来るのであれば、皆がそうするように望むだろうか。両親やちゆ、ひなたは当然認めないだろうが、のどかの苦しみを近くで感じられない人であればそれでもいいと考える人はいるかもしれない。しかし、一人の少女が犠牲になれば解決する問題なのだろうか。その決定を、14歳の少女に全て押し付けて良いのだろうか。

人間は如何にして生きるべきなのか。サルローが言うように、人間全てが浄化され、全人類が地球のお手当てに専念するべきなのか。それは則ち、人間が人間としての活動を否定して、地球環境のことだけを考えて生きるということになろう。それを強いるのは、ポル・ポトの反知性主義に近いものを覚える。
結局、人間が如何にして生きるべきかという問いには、自分自身で答えを出していくしかないのだと思う。その中で分かることもあるし、納得していけることもあろう。
のどか達はネオキングビョーゲンを倒した後も、ビョーゲンズとの戦いを続けていく決意をした。目に見えない人間の弱さや苦しみと戦い続けることが、生きることだと気付いたからである。それが独善的な正義で、その正義のためにいがみ合うことがあったとしても、それが人間として生きるということなのだ。

「ヒーリングっど♥プリキュア」が伝えたかったこと

結局、ヒープリが叩かれる理由はビョーゲンズの描かれ方が少し悲しげにならざるを得なかった点と、プリキュアが負う使命が重すぎた点にあるように思う。実際、プリキュア達がビョーゲンズ達に圧倒的に勝利する描写は少なく、常に戦いを強いられているように見受けられた。それは、町での大会やイベントをめちゃくちゃにされてしまい、ビョーゲンズを退却させてもそれが元に戻ることは終ぞなかったリアルさからも読み取れるものである。45話でもヒーリングガーデンの一部がまだ蝕まれたままであるという描写があったが、一度失われたものを元通りにするのは困難であるという点はどうしても抑えておきたい部分であったのかもしれない。
理不尽な理由で元の形に戻らなくなるものがあるからと言って、人間として生きること、弱さや苦しみと戦い続けることは変わらない。だからこそ、女将とハイジャンプの両方の夢を目指すと決めたちゆ、自分に兄や姉のような取り柄がないと感じつつ自分の行動に意味を見出そうとするひなた、そして自らを苦しめたダルイゼンを拒絶するという選択をしたのどか。それが他者・他の生物の生きることを阻害しないものであれば、自らがよく生きる為に全ての選択が平等に尊重されるべきなのである。それが則ち、「生きてるって感じ」なのだから。

終わりに

結局、書き上げるのに6日も掛かってしまった。その間にコロナの症状も快癒し、とりあえず日常に戻れそうである。
症状が出ているときは薬も全く効かず、熱や喉の痛みの終わりが見えない状況に愕然とした。このまま病気に冒されたままだったら……と考えると、のどかや両親の気持ちも他人事に思えない。
怪我の功名ではないが、当たり前のことを見つめ直す機会になったことは間違いない。そのきっかけをくれたプリキュアにも感謝しつつ、今回は筆を置こうと思う。
ハンバーグを食べて喜んでいるのどかちゃんがとても可愛らしかったです。ありがとうございました。

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