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ジロリンタン備忘録210813

 今月は1日が日曜日だったから、13日は金曜日だ。
 13日がどうして不吉かと言うと、諸説ございましょうが、イエス・キリスト様が亡くなった日と曜日ではないかという説がある。
 ということで、8月9日にパトリシア・ヒッチコックがカリフォーニア州サウザンド・オークスの自宅で亡くなったね。93歳だったから、老衰だ。
 あの有名な映画監督アルフレッド・ヒッチコックの一人娘だ。生まれは、1928年イギリスのロンドンだ。頬っぺたのあたりが父親に似てないかい?
 子供のときから、俳優になりたくて、子役で舞台に出ていた。LAの高校を出てから、ロンドンの王室演劇学校へ行った。ヒッチがイギリスで<舞台恐怖症>を撮影に来たときに、端役で出演することになった。主役のジェイン・ワイマン(ロナルド・レーガンの最初の妻)に似ているということで、危険な場面ではワイマンの代役を務めたという。そのほか、有名なところでは、<見知らぬ乗客>や<サイコ>、<ヒッチコック劇場>に出演した。1951年にジョーゼフ・オコネルと結婚して、子供を産んでからは、3人の娘の子育てに専念した。

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 そのほか、パトリシア・ヒッチコックが知られているのは、50年ほど前の<アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリー・マガジン>の准編集人 (associated editor) を務めていたことだ。その頃の<ヒッチコック・マガジン>はニューヨークではなく、マイアミに編集室があったが、パトリシアがマイアミの編集室に行っていたという記録はない。ヒッチコック家の一員として、「ヒッチコック」の名前を汚すような雑誌を作っていないかどうか確認していたのか、ただ雑誌がヒッチコックのお墨付きをもらっていると示しているだけなのかもしれない。このへんの状況については不明確だ。
 でも、<ヒッチコック・マガジン>の創刊当時は、同誌に掲載された作品の映像化優先権は<ヒッチコック劇場>にあったという記録はある。このあいだ、<マルタの鷹フライヤー>でも書いたのだが、<ヒッチ・マガジン>本国版の姉妹誌はなんと、<マンハント>本国版なのである。<マンハント>が猥褻文書出版問題で裁判沙汰になったときに、<ヒッチ・マガジン>が編集室をニューヨークからフロリダに移したのだ。面白いことに、日本では(光文社ではなく)宝石社が<ヒッチコック・マガジン>を発行し、久保書店が<マンハント>を発行していた。まあ、掲載するミステリー短編の傾向も随分違っていたから、当然のことだったのかもしれない。

 おっと、13日の金曜日の呪いのせいなのか、だんだん本題から離れて行きそうなので、きょうはこのへんで終わろう。くしくも、8月13日はアルフレッド・ヒッチコックの誕生日だったのだ(1899年生まれ)。

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