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「連帯責任」という悪習

今朝、小学1年の娘が「今日は最悪~~」と言う。
何が嫌と聞くと「今日は長縄があるから」とのこと。
長縄・・・長なわとびのことだ。うん、嫌だな。
「失敗しても、何が悪いねん、と言うといたらええ」と言ったものの、それが何の抵抗もなく言えるのは、今の自分だからだろう。自分が小中学・高校生だったころには絶対言えなかった。居丈高に責めてくる馬鹿に謝るしかなかった。クラスの奴らの視線が辛かった。

 娘が小学校に通い始めてもうすぐ1年、自分たち(団塊ジュニア世代)のころの粗製濫造的な教育と比べて、生徒の裁量や発達段階を考慮してくれている点が多々あるのをひしひしと感じ、感謝している。まあ、あの頃は1クラス50人、1学年10クラスが当たり前だったから、現場としては仕方なかったのだろうとは思うが。
でも、こういう「連帯責任」を惹起する習慣は残っているのね・・・まあ、運動会とか連帯責任を煮詰めたような代物だからな・・・
「連帯責任」、聞いただけで吐き気を催す言葉だ。「世間」「同調圧力」などと同様、死ぬほど嫌いな言葉である。

 ところで、そもそも、ここでいう「連帯責任」という言葉の使い方は正しいのか?少し調べてみた。
 日本大百科全書の解説には、「多数の者が共同で責任を負うこと。法律用語として、憲法上用いられる場合と民事法上用いられる場合とがある。」とある。

憲法では以下の条文に登場する。
以下出典は👇。本当に便利なサイトだ。

第六十六条 内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ

日本国憲法より

つまり、内閣は国会議会に対して責任を負う事、議会は内閣の行動を批判・統制する責任を負うこと、を内閣及び国会に指示している

民法では下記のように使用されている。

第七百十九条 数人が共同の不法行為によって他人に損害を加えたときは、各自が連帯してその損害を賠償する責任を負う。共同行為者のうちいずれの者がその損害を加えたかを知ることができないときも、同様とする。
 行為者を教唆した者及び幇ほう助した者は、共同行為者とみなして、前項の規定を適用する。
第七百六十一条 夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによって生じた債務について、連帯してその責任を負う。ただし、第三者に対し責任を負わない旨を予告した場合は、この限りでない。

民法より

要は「連帯債務」と同じ意味でつかわれているようだ。
あくまで徹底的に最も責任を負う者を追及する方が公平なように感じるが、あまりにも責任が分散しすぎて責任を負うべき者を特定できない場面がある。確かにそれでは被害者が救われない。
ただ、761条は世の中に多くの悲劇を生みだしているんじゃないか、という気もする・・・やはり「結婚」は「契約」なんだねぇ、怖いね。

 何が言いたいのかというと、「自己責任」などと同じく、法律用語のような言葉をあまり一般化しない方がいいのでは?ということだ。
 あくまでも、権力の無責任化を防ぐ目的で使うもの、そして法的責任を負うべき者を特定できない場合にやむなく使う(おそらく、それは組織に隷従せざるを得なかった者を救うためでもある)ものなのではないか?ましてや、力を持つ者が無力な者に求めるべきものではないのではないか?それはただの「支配」なのではないか?

 そもそも、学校のクラスのような小さな集団による行動を強制されることに、何の意味があるのだろう?こんなものは、たまたま集められた集団にすぎない。そこには、「集団の一員となること」に対する己の意思も必要性も、何も反映されていない。いわば「集団になる意義が存在しない集団」なのだ。実は「自分にとってはどうでもいい集団」なのだ。
 そんな集団に対する責任を感じることに、何の意味があるのだろう?集団に唯々諾々と隷従する人間が生まれるだけではないのか?だから昔も今も「世間」に隷従する人間が多いのではないか?これでは「個人(Individual)」も「公共(public)」も育たないのではないだろうか?
 その方が権力に都合がいいから?そんなことはない、その権力にすら「個人」がいないからだ。だから権力も「世間」を無視できない。そんなひ弱な権力が強権をふるうことができる訳がない。「公共」の概念を持つことができる訳がない。ただただ、「世間」と「声の大きい私人(private person)」の言う事に唯々諾々と従う「権力モドキ」が存在するだけではないか。
 だから、「上の劣化は下の大劣化、上の堕落は下の大堕落」なのだ、我々一人一人が権力の質と直結しているのだ。だから、自身の劣化と堕落には常に自覚的であらねばならないのだが、集団に埋没すると無自覚になるようだ。多分、その方が幸せな人もいるのだろう、私は嫌だけど。
 だから、連帯責任など、安易に求めてはいけない、感じてはいけない。あくまでも、「自分の責任」にのみ、自覚的でなけれなならない。
 
 ・・・まあ、こういうことをだらだら考えていると、「では、人ひとりが持つべき責任の範囲はどこまでなのか」という非常に難しい問題が目の前に横たわっていることに気づき、頭を抱えてしまうわけです。


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