「治療」はわかりやすく、「ケア」はわかりにくい。ゆえに「治療」だけが持て囃される。ということについて。

森田先生のこの👇記事、コメントしようとしたら500字を超えてしまった。さらに、もはや記事に対するコメントですらなくなってしまった。
なのでこちらで記載しておく。
不登校病棟|森田 洋之 (note.com)

元記事👇
磐田・福田西病院が「児童思春期病棟」開設へ 不登校の悩み、入院診療でアプローチ|あなたの静岡新聞 (at-s.com)

 精神科的ケアが必要な児童が少なくないことは事実だし、適切なケアにより児童本人と養育者の日常のQOLが上がることが多いのも事実でしょう。実際、私自身も娘の同級生でそういうケースを複数目にしています。
 だから、児童精神が注目されること自体は決して悪いことではないと考えています。
 児童の精神問題にかかわることは、コストとリスクが大きいので、やりたがる人が少ない。だから光が当たらない。受け皿となるべき地域コミュニティは、すでに崩壊しているか、自分本位で声だけ大きい高齢者(とその親族)ばかりに目が向いていることが多い。そもそも次世代を育てることを「他人事」と考えているお子様な大人が多いように感じる。
 その結果、児童の精神問題は、児童本人と養育者(と保健所)に丸投げされる。追い詰められた当事者により、実際に「収容」という言葉でしか形容しようのない事態も発生していたようです。そのような不幸を防ぐためにも、第三者からの適切な時期からの適切な「ケア」は必要だと考えています。
 
 しかし、この記事には強烈な引っ掛かりを感じます。それはおそらく、背景に「不登校は治療すべきもの」という理事長とマスコミの時代錯誤な認識が露呈してしまっているからでしょう
 「児童本人のQOLが上がること」と「学校に行くこと」が、イコールであるケースもあれば、そうではないケースもあるのでは?
 そもそも目的が「治療」であっていいのか?
 記事をよく読むと、現場自体は「ケア」の提供を目的としているように読めるので、どうも認識に大きな解離があるように思えてならない
 「ケア」か「治療(キュア、とも言ったりしますが)」か、という近代医療が抱える難題がここにも大きく横たわっているようです。

 おそらく「ケア」の重要性を最も理解しているのは、医師以外の医療職の人々でしょう。でも、「ケア」というものはあまりにも個別的で標準化できないし、結果もすぐに出ないことも多く、とてもわかりにくい。
 だから医療の主導権を握ることが多い医師は、わかりやすく達成感を得られる「治療」が好き。
 マスコミもわかりやすく報道できてインパクトも大きい「治療」が好き。
 薬屋もわかりやすく有益性をアピールできて、しかも金になるから「治療」が好き。
 だから、医療の受け手の人々も、わかりやすく情報を入手できてわかりやすく結果が見える「治療」が好き。

 その結果、「治療」が「ケア」よりも重要視されてしまう。「病気」ではなく「個体差」に過ぎない状態まで、「治療」対象とされてしまう。付き合っていくしかない不具合、本来「ケア」の対象となるべき状態でさえ「治療」の対象とされてしまう。そして「ケア」が疎かになる。最近ではコロナ対策禍の馬鹿騒ぎや、最近のアルツハイマー型認知症の抗体医薬がいい例です。
 そして、「治療」重視の行きつく先は「排除」です。それは「共産主義」が「独裁」に行きつくこと同じレベルで、過去の歴史が証明しています。ナチスの健康ファシズムがどのような事態を引き起こしたか、わが国で結核・ハンセン病・AIDS患者がどのような目にあったか、少し調べればわかることでしょう。
 「治療しなければならない」は「そのようにあってはならない」に容易に結びついてしまう

 ・・・・こう考えると「わかりやすい」ことがもてはやされる状況そのものが問題なような気がしてきました。
 「世の中は複雑系で、そもそもわかりにくいものだ。なのに、我々は隣にいる人の本心や価値観でさえ、簡単にわからない愚かな存在だ。だから、一生懸命経験を積んで、一生懸命勉強して、一生懸命考えて、一生懸命選択しなければならない。」という当たり前の前提を再認識する必要があるのでしょうね。


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