焼肉(後編)
火を制御する能力とは、間違いなく文明の第一歩である。
火を起こしたり消したりすることができる生き物はおそらく人間しかいないだろう。
火を扱う虎やパンダなど聞いたことがない。
眼前で熱されている鉄板もまた、古来より続く文化の結晶であるかと思うと、なぜだか身の引き締まるような思いがする。
その鉄板に、牧畜や漁業など、これまた古来より人間が発展させて来た狩猟採集の成果物としてのお好み焼きが形作られていく。
ゲル状のタネを、できるだけ真円になるようにコテで整えながら、焼き上がるのを待つ。
ほんの数万年前まで、どんぐりを煮炊していた生き物と思えない。
たった890円の食事に使われる数式や化学反応は一体どれだけあるのだろうか?
食材が焼けてきつね色になっていくのもメイラード反応という化学反応にほかならない。
熱することでより吸収が良くなり、エネルギーに変換しやすくなるともいう。
焼肉のことなどすっかり忘れ、眼前の海鮮焼きが食べられるようになるまでどのくらいかと考えてみる。
あと4、5分はかかりそうだなと思い、あたりを見回す。
入店した時よりも賑わいがまし、家族連れや中学生の集まりらしき席もある。
「うおおおおおお」
叫びながら廊下を走り抜ける五~六歳ぐらいの男の子が向かったのはドリンクバーの筐体の前だった。
ボタンを押す、ジュースが出る。
これだけのことがなぜあれほどまでに面白おかしく感じられたのか、今では懐かしむことしかできない。
子供のころ通っていた道場の集まりでファミレスに行ったとき、年上の人たちが異なるジュースを混ぜたり七味を混ぜて遊んでいたのを覚えている。
それまで混ぜ合わせるという発想もなかった私には衝撃だった。
メロンのフレーバーにコーラを混ぜる。
そんなものうまいわけはないのに、自分のオリジナルというだけで興奮する。
若いことに懐かしさを覚えるということは、老いたということに他ならない。
今はもう、ジュースを混ぜることも、廊下を叫びながら走ることもしない。
ただ、焼きあがりを待つ、疲れた男がいるだけだった。
そんな男でもときめきを思い出す瞬間がある。
ひっくり返す時が来た。まだ、この瞬間を待っている自分がいると思うと、すべてを手放したわけではないのだと安心する。
鉄板とすでに分離しているお好み焼きの隙間へこてを差し込む。ここからは勢いが肝心である。ビビっていてはうまく返すことはできない。
少し持ち上げてから、手首を返す。ふわっと浮き上がったお好み焼きはそのまま自分を少し巻き込みながら裏側を見せた。
70点のひっくり返しをごまかすように、巻き込んだ縁をあるべき場所へ戻す。
静かになっていた鉄板がまた水を得て騒ぎ出す。立ち上る水蒸気に乗って、小麦粉の焼ける甘い香りが漂う。
すでに届いていた焼肉モドキをその周りに添えると、また、肉の焼ける香ばしい匂いがふらついてくる。
焼きそばはまだ来ない。
なんだか微妙になってしまった所作一つ一つに、自分のこれまでの人生が重なるようで、取り戻したかに見えた若さが、こぼれて煙になってしまったように感じる。
自嘲的に笑うと、これまでに肥大化していた自意識が刺激されていくのを感じた。
この店はソースを刷毛で塗らせる。お好み焼きの表面を一撫ですると、また新しい匂いがする。
香辛料と塩気の混ざった香りは、くだらない思考で鈍っていた空腹を思い起こさせた。
食わねばならない。
直感的にマヨネーズ、かつおぶし、青のりを乗せ。さらに複雑になっていく香りを楽しむ。
こてで四等分にされたお好み焼きは、もはやかつての生き生きとした迫力を失い、ただ食われるのを待っているように見えた。
皿にとりわけ、箸を入れていく。ずぶずぶと沈むように入っていく先端を見つめたのもつかの間、私はお好み焼きを頬張った。
最初に感じたのは熱だった。味ではない。そのあとに少し焦げた匂いが来て、塩気と歯ざわりが始まりだす。
エビの歯ごたえとイカの弾力を同時に感じた時、なぜだか幸せを感じた。
うまいという言葉で片づけることもできよう。あらゆる美辞麗句を並べることで表現しきったつもりになることもできよう。
ただ、それをするには引け目を感じるほどの味と刺激がそこにはあった。
そこへ、笑顔のおじさんが焼きそばを運んでくる。
無論、焼きそばそのものが来るのではなく、麺や野菜の乗った大皿を運んできたわけである。
笑顔のおじさんはさらにその笑みを強め、ごゆっくりとだけ伝えると、金属製の皿を置いて静かに立ち去った。
はてさて、皿の上に盛られた食材を見ていくと気づくことがある。
キャベツ、豚肉、イカ、麺
どれもがすでに胃袋に収まったお好み焼きにも入っていたのだ。
何なら麺は小麦でできているのでこれはもはや物質的にはお好み焼きと同じものとなるだろう。
しかし、不思議なことに同じソース、同じマヨネーズをかけても同じ味にはならない。
まるで数学のようにはいかないのである。1は1ではなく、また別の1がある。
おもしろきかな食事の世界。いま眼前で蒸し上がるのを待つ焼きそばを丁寧にかき分け、蒸気が無くなったタイミングでソースを振りかける。
軽くまぜ、鰹節をまぶす。
踊りくるう鰹節が胃袋を刺激する。
勝負は一瞬だった。
会計を済ませ、店の外に出る。たべすぎて動きが鈍くなった体に、食べ過ぎるという状態に慣れていない人類に気づいた。
あとがき
あとがきとはなんだろうか。すでに書くべきものを書いた人間になにか書かせるのは、虐待ではなかろうか?
暴力反対!
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