コロナ危機に敢えて矢面に立った「8割おじさん」の覚悟

<コラム>11th July 2020 Curated by 小出重幸

「何も対策を取らないならば、最大42万人の死者が予測される」(4月15日)と発表して、政府、国民双方に危機感を呼びかけた西浦博・北海道大学教授は、8月から、京都大学大学院医学研究科(社会健康医学)に転出されます。
 科学と社会、そして政府の間をつなぐ、科学コミュニケーションに真剣に取り組む専門家として、多くの人たちに強いインパクトを与えました。その行動原理の背景ににはなにがあるのか、高橋真理子さんのコラムをお届けします(小出重幸)。

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コロナ危機に敢えて矢面に立った「8割おじさん」の覚悟

朝日新聞科学コーディネーター 高橋真理子


「何もしなければ42万人死亡」と個人的な立場で公表

 2020年は新型コロナ感染症パンデミック(世界的大流行)の年として、歴史に残るのだろう。日本では「接触8割削減」という目標を掲げた緊急事態宣言が出され、誰も遊びに出かけないゴールデンウィークを始めとする異例の事態が次々と生じた。この不安の日々は、私たちの記憶にも長く残るだろう。

 接触8割削減を政府に提言したのは、感染症疫学の専門家、北海道大学の西浦博教授である。自ら「8割おじさん」と名乗り、マスコミの取材に応じただけでなく、ツイッターでもカジュアルに発信した。これまで、危機的状況になると社会から隠れるように行動する専門家が多かったのに対し、姿勢の違いは際立っている。

 西浦さんは、厚労省の専門家会議のメンバーではなく、そこに付属するクラスター対策班の一員である。一躍注目を集めたのは、4月15日の記者意見交換会で「行動制限を何もしなかったら42万人が死亡する」という推定を公表したときだろう。この公表は「個人的な立場」ですることだと西浦さんは強調した。実際、菅義偉官房長官は会見で「推定死者数については、政府としては公表していません」と語っている。

 たちまち「国民を脅すもの」「現実から離れた数理モデルを使って、根拠の乏しい数字を出している」「責任をとらない専門家が何を言う」といった批判が巻き起こった。だが、そもそも、推定死者数はどこの国でも公表しているものだ。公表しない日本政府が世界標準から外れている。

 そして、西浦さんが公表した数値はおかしなものではない。例えば英国政府は「厳格な対策をとらないと死者は26万人」とする報告書を3月16日に公表している。英国の人口は6665万人、日本は1億2650万人だから、英国の死者が26万だったら、日本が42万でもまったくおかしくない。少なくとも荒唐無稽な数字ではないことは、この比較からだけでも明らかだ。

 それもそのはず、西浦さんは感染症疫学の総本山ともいうべき英国インペリアル・カレッジ・ロンドンで学び、ドイツやオランダ、香港でも研究経験を重ねた、この道の世界レベルのプロフェッショナルなのである。

馴染みがなかった感染症数理モデル 自ら社会に理解を広めようと奮闘

 だからこそ、さまざまな批判にもビクともしなかった。それどころか、どんなデータを使ってどのように計算しているかの情報を洗いざらいネット上に公開し、日本では感染症疫学の専門家が少ないので、他分野で計算が得意な人にぜひ一緒に考えてほしいと呼びかけた。あっぱれな対応と言うしかない。

 「8割おじさん」を自称したことも、プロとしての戦略だろう。日本はこれまで感染症の数理モデルに馴染みがなかった。政府も、国民もだ。あまりにきれいなグラフを見せられて「何だか信用できない」と感じてしまうのも、当然の反応とも言える。西浦さん自身、感染症数理モデルを「日本にとって黒船のようなもの」と語ったことがある。「黒船」は怖いものではない。新しい知恵を授けてくれるものだ。それを伝えることも自分の使命だと心得ているから、老若男女に親しみを覚えてもらえる「8割おじさん」を使ったのだと思う。

 そもそも「疫学」と聞いて読者はピンとくるだろうか。これは集団を対象とし(だから統計学を使う)、病気の発生原因や予防方法などを突き止める学問だ。いわば、社会を対象とした医学である。ところが、日本の医学界では病気のメカニズムを細かく調べる研究者や、病人の治療にあたる臨床医が重んじられ、おそらくそのために日本社会のなかで疫学は目立たない存在であり続けた。

 疫学は、社会との双方向のやりとりなしには成立しない。西浦さんの、矢面に立つのも当然のこととする覚悟は、疫学者だからこそなのか、それとも世界をめぐって修行を重ねた経験によるものなのか。

 ともあれ、西浦さんのような、社会との双方向コミュニケーションを当然のこととしてやり遂げる専門家がこれからの日本に増えてほしいと思う。

(MANAGEMENT SQUARE,ちばぎん総研,365,17,2020.より許可を得て転載)


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