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骨ごとぶった斬る愛で(未完)

※いつか本になるやつです

「おぁ、」
絵がゴミ箱に捨てられている。
普段なら階段下に設置されているゴミ箱の中など気にもしないが、歪に八等分にされたソレは見覚えのあるもので、章臣は思わず蓋を取り外した。文化祭最終日なだけあって、女子が顔に貼っていたデコシールのシートとか、リボンの切れ端とか、あとはお菓子のゴミとか色んなものが捨てられている中で、ソレは一際目立っていた。
あれれ、あれあれ。コレ俺のクラスの宣伝ポスターじゃね。文化祭の片付けで生徒たちが忙しなく廊下を行き交う中、章臣は人目もはばからずゴミ箱の蓋を開けて中に手を突っ込んだ。華やかに描かれたポスターの一部には『二年四組』と書かれていた。
「やっぱ俺らんとこのポスターじゃん」
「お、マジだ」
「うわビビった!ンだよ星野かよ!」
章臣の後ろからひょこっと現れた友人の星野は、今日も相変わらず眠いのか開ける気がないのか、死んだ目をしている。
「ビリビリだな。闇深ェ〜」
「なんでこんなとこに捨ててあンだろな。渡り廊下に飾られてたやつじゃねーの」
「自分で捨てたんじゃね?」
「自分でェ?」
章臣は無意識に顔を顰めた。このポスターを描いたのは藍田純という男子生徒だ。細くて大人しい奴。喋ったことはない。目立たないけどオタクっぽいわけでも芋臭いわけでもない感じ。誰にでも愛嬌を振りまく印象もなければ一匹狼というイメージもなかった。つまりあまり覚えてないってことだ。章臣は彼と喋ったことないのだから仕方ない。章臣が藍田純について知っていることは、去年もポスターを作っていて、名簿が一番だということだけだ。確かこのポスターは入賞できなかったんだ。
「自分で捨てたにしたって、こんな誰でも見るような場所のゴミ箱に捨てる奴いる?バレるくね?」
「知らねーよ……。ゴミ箱開けて漁る奴なんかお前くらいだよ」
「藍田クンってこんな闇深ェやつだっけ」
「さァな。絵を描いてる奴なんかみんなどっかネジ外れてるもんなんじゃね」
「ふーん。マ、自分の絵を自分でビリビリにすんのはご自由にどうぞって感じだけどよ。一応俺らのクラスのもんでもあるからちょっと気分悪いよなー。うちのクラスは劇で優勝したから僻んでるとか?うっ……思い出したら気分悪くなってきた」
「俺のおかげで優勝できたんだろ」
「いや俺が死ぬほど盛り上げたからだろ。なんで俺が星野とキスしなきゃいけなかったんだよ」
「女装と男同士のキスは盛り上がるって相場で決まってんの。提案したの俺だし、俺のおかげ」
「失うものが多すぎるわ!ああいう時の女子の団結力っつーか、普段ろくに関わらねぇ奴らも賛成の雰囲気出すのセコいだろ!」
「うるっせーなァ。初めてでもないんだからグチグチ言うなよ。お前もノリノリだっただろ」
星野は本当に面倒臭そうにブラブラと手を振った。嬉しいとか楽しいとかは滅多に顔に出さないくせに、イライラした時や不満な時はよく顔に出る男だ。「もう捨てられたんだからあんま掘り返してやるなよ」と言って、星野は教室に帰って行った。章臣は星野の後を追うために慌ててゴミ箱の中に残っていた最後の一枚を取り出した。分厚い紙を簡単に破ることはできなかったらしく、所々強く握られて折れている箇所があった。やっぱり自分で捨てたのだろうか。章臣が知っている限り、藍田純は浮いているわけでもないし、いつも一人ぼっちでいるわけではない。普通に友達がいる普通の生徒だ。女子にはよく見たら顔が可愛いとか言われているけど、章臣は雰囲気でしか覚えていないから実際どうだったのかは知らないが。とりあえず、だから純以外の誰かが悪意を持って破り捨てたなんて考えられない。たかが文化祭で、他のポスター係と命を懸けて競い合っているわけもないのだから。
教室に戻った章臣は、クリアファイルに破られたポスターをはさんだ。持ち帰ったのは藍田純の頑張りを無駄にしたくないだとか、文化祭の思い出だとか、そんな綺麗な理由じゃない。ただなんとなく、ゴミ箱にあるべきではないと思ったからだ。


*


ポスターを拾った日から、章臣は無意識に純を目で追うようになった。今まで文化祭以外では気にもしなかった人間。なんなら文化祭の担当決めと、文化祭最終日のポスターの順位発表の時以外はいてもいなくても分からないくらい興味がなかったというのに。純は授業中ほとんど板書せず、ぼーっと虚無を見つめているか、俯いてひたすら紙に向かって鉛筆を動かしていた。 先生が近付くと器用にノートの下に紙を隠し、また窓の外やら眠っている生徒やらを見つめてぼーっとする。あれはもはやプロの手つきだ。章臣が授業中にこっそりスマホを触るのと同じだな。純は休憩時間になるとトイレに行ったり、友達と喋ったりして、本当に普通の男子高校生だ。あまり感情を表に出すタイプではないのか、笑うときは控えめだった。
章臣には一つ気付いたことがある。藍田純は結構綺麗な顔立ちをしているということだ。大きくて少しつり上がった目は性格のキツさが見えてくるようであるが、色白で、気品さえも感じる凛々しい眉。背は少し低いけれど、それが尚更女性らしい気高さを感じるというか、つまりはとにかく女顔だと言うことだ。章臣には語彙力がなかった。
昼休みがもうすぐ終わる頃、章臣はまだ純のことを観察していた。ぼーっと、アホみたいな顔で純を見ていると、さすがに視線に気づいたのか純が章臣を見た。慌てて顔ごと視線を逸らすが、あまりにもわざとらし過ぎる。
「何してんのお前」
「な、なんもしてねェよ」
「ふぅん……。あ、チャイム鳴った」
今から掃除時間だ。今週は自分の班は掃除場所が割り当てられなかったので、同じ班である友達の星野と廊下に座り込んでスマホゲームをする。純の班は……あ、自分と同じだから純も掃除しなくていいのか。
「お前、アレになんでそんなこだわってんだよ。そんなに気になるか?ポスターのこと」
星野がそう聞くので、章臣は「べつに気にしてねェし」と少し強めに言い返す。
「そんな気になるんなら、生徒会の誰かに聞いてみろよ。文化祭のポスターの保管は生徒会がやってるらしいからな」
星野にとってはあのポスターがどうなろうが知ったこっちゃアないのだろう。だって星野のではないし、彼はそもそも思い出だとか努力の結晶だとか、そんな綺麗なものに執着する男ではない。文化祭にポスターは二棟から三棟を繋ぐ校舎内の渡り廊下に並べられる。生徒会や生徒指導部の先生たちが管理しているので、描いた本人が持ち帰りたいと言わない限りは、ポスターは文化祭が終わったあと生徒会の準備室に保管されることになっている、らしい。章臣は描いたことがないので詳しくは知らない。
「章臣、今日部活行く?」
星野はもうポスターの話題などどうでもよくなったのか、部活について尋ねてきた。
「行かね」
「じゃあ俺も行かなーい」
「行けよ。そろそろスタメン外されんじゃねーの」
「べつにいいわ。もう辞めよかな」
「俺ももう辞めてぇわ」
章臣は中学の頃からラグビー部に所属している。運動は得意だ。ラグビーは好きだし勝った時はちょー嬉しい。でもめんどくさい。今日はめんどくさいと思ったから行かない。また顧問に怒られるんだろうなァとか思うが、べつに強豪校でもないし、もっとこう、今日も楽しんでこーぜ!って感じでいたいのだ。そもそもテレビで見るような厳ついゴリマッチョでもない。ただそこそこ筋肉がついているだけの細マッチョとでも言うべきだろうか。
スポーツは勝敗あってこそ人を魅了するものだとは思うけど、負けた時の反省会とかマジでめんどくさい。負けると途端につまらなくなる。じゃあ負けないために頑張るべきだけど、俺がやりたいのってそういうことじゃない。そういうんじゃない。友達と休み時間にドッジボールをして「負けた〜!」とかその程度でいい。それくらい軽い気持ちでやりたいのに、だったらお遊びですればいいだろって話だけど、そうもいかないんだなコレが。
ダラダラとゲームを続けていると、ふと純の声が聞こえて反射的にそちらに顔を向けた。ら、隣にいる星野としっかり目が合ってしまった。星野はじとぉっとした目で章臣を見てから、画面に視線を戻す。
「……お前さ、やっぱ今日ずっと純のこと見てるよな」
「見てねーし」
「お前そっち系だったの?」
んなわけあるかよ!章臣が星野を睨んでも、分かっていて無視しているのか、星野はスマホから目を離さない。死んだ魚みたいな目をしながら指だけ激しく動いているのがかなり気持ち悪い。
「なに見てたんだよ」
「だから見てねぇって」
「そうか?じゃーあっちの方向なら……ハヤカワが座ってるよな。お前ハヤカワ狙ってんの?」
「ちっげーよ!アイツ彼氏いるだろうが」
「彼氏がいてもお前のことが好きだ!てか?」
「きっしょ。死ねマジで」
「授業中にずっと純のこと見てたお前の方がキモいわ。さっきだって見てたろ。お前って小柄な可愛い系が好きかと思ってたけど、ああいう線が細い方が好みなんか?」
「マジで黙れよ」
章臣が星野の口を押さえたとき、ドンッ!と重いものが床に落ちる音がした。星野に肩を掴まれたまま二人で教室を覗くと、ハヤカワが運んでいた机を倒してしまったらしい。あーあやっちゃった。これ誰の机?って、ハヤカワと近くにいたヤマダが、散らばったノートやら教科書やらをせっせと回収していた。
それ俺の机じゃん。でも俺が倒したんじゃねーしめんどくさいから手伝わんとこ。「うわ、お菓子のゴミ入ってるよ。きったなー」とか聞こえたけど気のせい気のせい。
あ、待て。
待て待て。
俺机の中に何入れてた?教科書とノートと……お菓子と、あとなんだ。入学してから一度も使ってない電子辞書と、プリントを捨てないせいでぱんぱんに膨れたクリアファイル。クリアファイル……。
「まっ!!」
待て!!章臣が慌てて教室に飛び込んだのと、ヤマダがファイルからはみ出たポスターの一欠片を拾ったのと、純が教室に戻ってきたのは同時だった。純は散乱した教科書たちを見てから自分には関係ないと一度視線を逸らしたが、ヤマダの手にあるポスターの一部を見て固まってしまった。なんちゅータイミングの悪さ。章臣はヤマダがポスターの一部だと認識する前に、手からポスターを奪った。
なんとなく、人にはバレないほうがいいと思ったのだ。なんとなく。ハヤカワやヤマダのような、井戸端会議をする主婦たちくらい噂好きな彼女らには特に。女の噂の広がり方は異常にはやいことくらい章臣走っている。章臣は純の視線を感じつつも、ポスターを守るように後ろに隠す。あの日ゴミ箱から拾ったまではよかったものの、どうすればいいのか分からなくてクリアファイルに挟んだままだったのだ。
「ちょっと今のなに〜?なに隠してんの?前のテスト?」
ヤマダは何も描かれていない裏面を見ただけだったので、章臣が前回の中間考査で赤点をとったテストだと思ってるらしい。好都合……いや俺は親に結構怒られたけど。どうする。なんて答える?ていうか俺は何をこんなに必死になってるんだ。たかがポスターがなんだ。これを持って俺はどうする気なんだ。
純と目が合った。「ぁ……」と、掠れた小さな声が聞こえた瞬間、純は教室を飛び出した。
「あ、ちょっ……!」
章臣は慌てて純を追いかける。後ろから星野が呼んだ声が聞こえた気がするが、今はそれどころではない。校舎を出て駐輪場を抜ける。屋根の下から飛び出した誰かの自転車に引っかかって数台ドミノ倒ししてしまったが、章臣は止まらず走り続けた。
「あっ」
いた。
正門に近づくと、純がちょうど正門から敷地外に飛び降りたところだった。重い鉄の門を開ける時間がもったいなくて章臣はよじ登る。そんなに足速くない。余裕で追いつける。
タバコ休憩のために外に出ていた一年生の頃の担任のギョッとした顔が視界の端に見えた。元担任は何やってんだお前らと叫んだが、相手が章臣だし、どうせ言うことは聞かんとよく理解している元担任は見なかったことにした。自身が受け持つ授業で生徒が四十人中五人しか起きていなくたって「マァお前らが寝てても俺は給料もらえるしな」と、起きている生徒五人で授業を進めるような適当な教師だ。章臣は元担任のそういう適当すぎるところが気に入っていた。今の頭の固い担任は好きじゃない。
走る、走る。てかなんだ?何してんだコレ。なんで俺、追いかけてるんだ。
「藍田くんッ」
章臣の小さな声に純は気付かない。学校の外なのだから当たり前に通行人たちがいる。制服姿で追いかけっこをしている二人は異質でよく目立った。高架下の広い歩道まで出たとき、章臣はもう一度純を呼んだ。
「止まれって!藍田純ッ!!」
今度こそハッキリ呼ぶと、純はやっと足を止めた。大した距離を走ったわけでもなかったが、全力で走った純は膝に手をついてゼェゼェと肩で息をする。章臣も数回深呼吸をした。しばらくして落ち着いたのか、純は勢い良く振り返り、ズンズンと大股で章臣に近付いて肩を突き飛ばした。
「こんなもん拾わないでよ……!」
こんなもん、てのはもちろん、章臣がずっと持っているポスターのことだろう。純は感情的にならないように必死に堪えているのか、声が震えていた。
「なんで拾ったの」
なんで?ゴミ箱に捨ててあったからだ。あんなところに、あんな風に捨てられていたからだ。この男は自分が描いたものになんの執着もないのだろうか。
「お前は、なんで捨てたんだよ」
章臣が逆にそう問えば、純は一瞬目を見開いて、それから唇を噛み締めた。
べつに興味ない。全然興味ないんだ。そもそもポスターは純のものだし、俺たちは文化祭が終わればあの絵を話題に出すことは一生ないだろう。だから純が捨てたいと思ったのならば、それはそれでいいんだ。だって俺達には何の関係もないし。捨てられるのかなぁって思ってるのは俺だけだ。彼といつもいる友人たちだって、この8等分にされたポスターの存在を知らない。文化祭が終わったあとポスターがどうなるかなんて考えたこともない。そのくらい誰ももうあの絵に関心がなかった。俺だって、星野だって、クラスの奴らだってもうしばらくすれば何組が何位だったかも思い出せなくなるだろうし、純の絵がどんなものだったか忘れてしまうはずだ。そんなもんなんだ。
去年入賞したはずの純のポスターなんて、これっぽっちも思い出せない。
「入賞できなかったから」
「……それだけ?」
「それだけだよ。それ以外になんもない」
「たかが、」
たかが文化祭で。死ぬわけじゃあるまいし。人生が終わるわけでもないだろうに。章臣がそう言うと、さっきまで淡々と喋っていた純は黙り込んでしまった。さすがに言いすぎたか?純にとっては相当ショックな事だったのかもしれない。しかし謝るのもなんだかな……だって純が落選したのは自分のせいではないし。去年は2位だったし、来年もあるのだから、また頑張ればいいだけの話じゃないか。そんな、激昂して破り捨てるほどの大層なことじゃないだろ、コレは。
「……そうだ。たかが文化祭で、たかが文化祭ですら、ろくなものが作れなかった。たかが文化祭で、たかが文化祭ですら!」
「な、なんだよ……急にでけー声出すなよ」
「部活に行きたい時だけ行って、怒られてもヘラヘラしてるお前なんかに言って分かるわけがないだろ!」
「オォ……?なんだとこの野郎……」
おい、流れが変わってきたぞ。さっきまで自分の行いを振り返って苦しそうにしていたかと思えば、こちらに攻撃を仕掛けてきた。
「大体、ゴミを漁って拾うなんてやってることが犬と変わらない!お前は犬なのか!?」
「あァ!?黙ってりゃヘラヘラしてるだの犬だの言ってくれちゃってよォ……テメェこそわざと人に見えるところに捨ててんじゃねーぞ!どうせ注目されたかっただけだろこの厨二病が!」
「僕がいつどこで何を捨てようが僕の勝手だこのクソボケ!!勝手に見つけて勝手に盛り上がってるのはお前だけだ!!」
「顔だけじゃなくて怒り方も女みてーだなァ!ぎゃあぎゃあヒステリックに叫びやがって耳が痛ェんだよチビが!!」
「バカ犬ほどよく吠えるんだよなァ!!」
「ぶっ殺すぞテメェ!!」
何が気品だ!何が気高さだ!!タコみてぇに顔を真っ赤にして怒鳴ってるコイツのどこにそんな上品な要素がある!綺麗なのは顔だけだ!それも怒りがいき過ぎて血管が浮き出ているせいで台無しだ!順位が悪くて気に病んで突拍子もないことをしたのかもと、少しは気の毒に思っていたけど!そんな思いも一瞬で吹っ飛んだ。
腕を引っ張ると純は簡単によろめいた。掴んだ腕が思ったよりも細くて驚いてしまったが、その隙に純に脛を蹴られてまた一瞬で怒りが爆発した。最近工事が行われた高架下は綺麗に整備されており、昼間や休日は保護者が幼い子供を連れて芝生で遊んだり、フリーマーケットが行われていたりする。今は真昼間だ。今日も子供たちが保護者に守られながら楽しく駆け回っていた。そんな争いとは無縁な微笑ましい広場から数十メートル離れた端っこで、二人は掴み合い罵り合っている。
「力で勝てると思うなよタコちゃんよォ……!ヘラってても俺ァスポーツやってんだよ。テメェみたいに部屋ん中でチマチマと陰気臭いことやってんじゃねェんだよ」
「陰気臭いだって?ふん……お前が使ってる教科書もお前が読んでるWeb漫画もお前がやってるゲームも、お前の言う陰気臭い奴らがやってるんだよ。無くなったら困るよなァ?お前がスポーツやめたって誰にも何の影響もないけどな!」
「偉そうに言うくせにたかが!たかが文化祭で!入賞もできずに忘れ去られるお前の絵は何か価値あんのか、なッ!!」
純の胸ぐらを掴んで芝生に引きずり倒し、細い両腕を地面に押し付けた。長い前髪が額と鼻を滑って重力に従い流れていく。さっきまで顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた純は、突然魂が抜けたように力も抜けて、喋らなくなった。押さえ付けている腕を払うこともせず、章臣の向こうを見ているかのような虚ろな目をした。言い過ぎた、かも?と、少しだけ反省した章臣が腕を離そうとしたとき、純は少し掠れた声を出した。
「そうだな。たかが文化祭で、入賞もできなかったんだ。何の価値もないな、僕の絵は」
「い、いや……価値がないとまでは言ってないだろ。え?言ってない、よな?あれ?」
「どっちにしろ、君には元々価値のないものなんだろう。君だけじゃなくて、クラスの皆そうなんだろうな」
「な、なんだよ……急にそう、卑屈になんなよ」
「僕がどんなものを描いていたかなんてもうほとんどの人が覚えてないんだ。なのに順位だけは嫌なくらいしっかり覚えてる」
結果発表を聞いた時のクラスメイトの視線が恐ろしかった。担任が「やってくれたことへの感謝を込めて拍手をしよう」と言ったときのバラバラの拍手を思い出す度に吐きそうになる。 
「価値ないよな。どうでもいいよな。どうでもいいから、もう捨ててくれる?」
純は淡々とそう吐き捨てた。
べつに捨てたっていいんだ。本当に。なのに章臣は手汗で絵の具が滲んでもポスターを手放そうとは思わなかった。そう言えば藍田純は絵を描くことが好きなのだろうか。入賞できなかった彼の絵は誰が評価するんだろう。“入賞できなかった作品”としてその他に入れられて、破かれて、終わり。各クラスの劇やポスターの講評がまとめられたプリントには、一位のクラスは五行も書かれていたのに、うちのクラスのポスターには、純には、コメントはたったの一行だった。
「す……てない」
「……は?」
「捨てない。捨てるなら、捨てたなら、もうお前のもんじゃない。俺がもらう」
「なんだよ君、頭おかしいのか?完成していた一枚ならまだしも、もう紙屑同然のソレをもらってどうするのさ」
「うるせェよ。もう俺のだから何の文句も言うな」
「……じゃあ好きにすれば。僕はもうどうでもいいから」
純は何かを諦めたように目を閉じた。章臣は拍子抜けしたのと同時に、なんだか、こう、良くないことをしている気分になった。女みたいな綺麗な顔をしている細い男に覆いかぶさって、両腕を地面に縫い付けて見下ろしているというのは、あまり良くない絵面というか。そろ〜っと純から離れて隣に座るが、純は目を閉じたまま動かない。そんな時間が十秒、一分、3分、5分と続き、章臣はようやく純が寝ていることに気付いた。
「おい、おいっ!こんなとこで寝るとかマジかよお前!」
肩を揺すっても純が目を覚ます気配がない。拗ねて寝たフリをしているだけかと思い顔に耳を近付けてみたが、呼吸の深さでなんとなく本当に寝ているのだと分かった。10月はまだ温かい。動けば汗をかくくらいだ。章臣は寝ても起こさねーし運んでもやらねェ、と悪態をついたが、どうせ5限目までまだ時間はあると純と並んで寝転んだ。
良い天気だ。直射日光というほど強くもない柔らかい日差しが芝生を温めていて、章臣も少し眠たくなってきた。大の字になって首だけ純の方に向ける。
「うわまつ毛なが……ってうおぉおお!!おおおお!!キモいこと言うな俺ェアア!!」
その後、広場にいた保護者の通報により、芝生で仲良くお昼寝をしていた章臣と純は生徒指導部に連行されるのであった。