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サーカディアンリズム

※嘔吐、流血表現があります





「なにを馬鹿なことを考えてるんですかッ!」
誰もいない真っ白な廊下に吉岡の怒鳴り声が響いた。吉岡から葵の表情は伺えない。俯いているせいで鼻血が靴に垂れ落ちているのに、葵はそれすらどうでもいいらしい。吉岡は葵の手当をしながら大きくため息を吐く。
「いい加減にしてくださいよ。いつまでそうやってるつもりですか」
葵は何も喋らない。こうなったときに一番面倒くさくて頑固なのは葵だ。決して軽傷とは言えない状態なのに本部に帰っても葵が治療室に入ることはなく、ただじっと、律が眠っている部屋の前で彼女が起きるのを待っていた。
『夏川律が拉致された』
HERO過激派の制圧のため現地にいた隊員全員に緊急連絡が送られたのは、すでに葵が一人で律の救出に向かっていた時だった。律が自分からどんどん離れていくことにいち早く気付いた葵はすぐに痕跡を追った。HEROの存在を強く否定する過激派は全国に散らばっている。葵たちの気が一箇所に集中している隙を狙って別の過激派グループが律を攫ったのだ。
一足遅れて吉岡がアジトについた頃には既に全てが終わっていた。足元に転がる死体たちを踏みながら吉岡は葵を探した。アジトそのものもめちゃくちゃに崩壊しており、血と火薬の匂いが鼻につく。壁が崩れたアジトの中を進んでいくと、ちょうど血だらけの葵がぐったりしている律を肩に担いで歩いてきたところだった。律はかすり傷程度で、何かを打ち込まれた形跡は見当たらなかったが、撤収作業は他の隊員と職員たちに任せて吉岡はすぐさま葵と律を本部へ連れ帰った。そしてしばらくしての冒頭である。
「肋骨折れてますよ。足にも腹にも穴が空いてる!頭から出血もしてる!このまま放置して死にますか?」
「……」
「あなたって本当に変なところで頑固だな。葵さんはこの組織に必要不可欠です。死なれると困ります。だから治療を受けてはやく治してほしい。分かりましたか?分かりましたね」
「……」
「もう!治療終えたら律さんと会っていいですから!律さんも今検査中なんでここにいたってどっちにしろ会えないですよ!」
「……」
「ほら、行きましょう」
「………うん……」
その声は掠れていてほとんど吐息みたいなものだったが、吉岡は満足し葵を横抱きにして治療室へ向かった。葵が座っていた場所はまるで刺し殺された死体だけが消えてしまったように血溜まりができていて、吉岡は少し笑った。



*


「呪いだな」
「ですねぇ」
ふふ。あきらの「呪い」という聞き慣れたようで遠い言葉と、陽彩の穏やかな笑い声は、意外と葵の耳にすっと入ってきた。黒雪邸の離れには紅茶とクッキーの甘い香りが広がっている。
葵はカラカラに乾いた口の中で「呪い」と呟いた。
「お前がぶっ壊したあのアジトがあった場所。元々立ち入り禁止区域だ。うちで管理してた場所なんだよ」
“うち”というのはHLのことだ。葵や律のような戦闘に特化したIUとは反対に、頭脳派で、物理ではどうしようもないことを研究し調査している職員たちのことである。つまり今回のあきらの言う“呪い”は彼らの得意分野でもあった。分け合いっこなんて知らないあきらは一人で淡々とクッキーを食べていく。プレーン、イチゴジャム、ココア、マーブル、チョコチップ、抹茶。皿の上に綺麗に盛られていたクッキーがなくなれば、陽彩は相変わらず温かい笑顔を浮かべたまま新しく盛り付けていた。
「うちの中のどっかの誰かが寝返って明け渡したか、殺されたかだな」
「呪いはあの場所に埋められていた護符のものです」
「素人が作った半可なもんだよ。家の入口に貼れば少しは厄除けになるがこんなの……ハッ。自分で厄を呼んでるようなもんだな。字が下手くそ」
鼻で笑ったあきらがテーブルの上に置いた護符と言われたものは、見てすぐに新しいものではないと分かるほどよれていて、土で汚れ所々破れていた。
「中途半端な護符はすぐに限界が来ます。あの程度なら数日で厄を吸い込めなくなり、それに気付かないまま放置しておくと護符だったものは呪符に変わり、溜めた厄が次はその家主を襲うでしょう。例の護符はあの地域一帯の民家に配られていて、住人は皆死にました。HLが管理していたあの場所には十年以上放置された護符が大量に埋められていました」
「つまりお前の片割れはかなり邪が強いもんに当てられてしまったってわけ。あそこにいたのが一般人なら内臓まで腐って死んでたろうよ。十数年も邪を溜め込んで人を殺した札が、元々精神的に不安定な人間の中に取り込まれたらどうなるか大体分かるだろ」
交互に説明をするあきらと陽彩の言葉に葵は返事をしなかった。いつもであれば、はいやらうんやら素直に返事をする葵は、あきらが一人でパクパクと食べていくせいでなくなっていくクッキーを見つめているような、気がした。葵がどこを見て何を考えているのか二人には分からなかったし、いちいち構ってやれるほど暇ではないため淡々と説明を続けていく。
「死にはしない。ただしばらくは耐えるしかない」
「血を吐き続けることをですか」
ここでようやく葵は口を開いた。カラカラの喉から発された言葉は掠れていて、それなのに責めるような熱が込められていた。
葵の言う通り、律は救出されたあの日からずっと血を吐き続けていた。高熱を出しており、意識があるのかないのかも分からず、ただひたすら肺が焼かれたような呼吸を繰り返し、血を吐き続け、すり潰した林檎も粥も吐き、呼び掛けにも答えず、虚ろな目で横たわっている。それがどれほどの苦痛なのか葵には分からない。死にはしない。死にはしないだと。だからなんだ。アレからどれだけ時間が経った?
「そうやって中に入った邪を出すしかありません」
陽彩はハッキリとそう言った。つまり、葵は待つしかないということだった。律が自然に身体の中の邪を吐き切るまで、葵にできることは何一つない。
「おい、鼻血」
あきらは顎で葵の顔を指した。葵の真っ白な肌に赤黒い血がたらりと垂れる。葵はそんなこともどうだってよかったが、ここは本部でも研究所でもなく陽彩の屋敷だ。家具も高級なものばかり置いてあるためさすがに汚すわけにはいかず、ティッシュで鼻を押えた。
最後のクッキーを口に放り込み、手についた粉を皿の上に落としたあきらは、静かに背もたれに背中をつけて葵を見やった。全身のあらゆる場所にガーゼや包帯が巻かれており、額にある縫った痕は痛々しい。先日負った傷はまだ深く残っており、いつもより治りが遅いように見える。いくら葵が恐怖心をどこかに落っことしていたって、少なからず葵もあの護符の影響は受けたはずだ。護符から受けた邪は血と共に全身に回るため、血を吐き出して身体の外に出さなければならない。鼻血はおそらく護符の影響だろう。
今回落ち度があったのはHLだ。HLがしっかりと管理できていればこうはならなかったはずなのだ。葵はあきらと陽彩に怒りをぶつけたってどうしようもないことは理解していた。理解したうえで、どうしようもなく腹が立って、けれどもやはりソレを態度に出すことは一切しなかった。
「葵さん。戻ってゆっくりお休みになられてください。傷は葵さんの方がずっと深いです」
陽彩に手を握られ、背中を支えてもらいながら葵は立ち上がった。「ごめんなさいね」と陽彩は言う。葵は何も答えなかった。陽彩は何も悪くない。もちろんあきらも。呪いだの怪奇だの葵にはちっとも分からない。ソレらの調査があきらと陽彩の専門分野だったとしても今回の件は二人の管轄ではなかった。ここにいる人たちは誰も悪くないのだ。
本当にそうだろうか。自分は?自分は何も悪くなかっただろうか。
美味しいゼリーをいただいたの。と言った陽彩に連れられて、葵は陽彩以外に六人の男子高校生たちが住む本館に入った。あきらも当然のように横にいて、あれだけクッキーを一人で食べたというのにゼリーまでもらう気らしい。律はまだ食べられる状態じゃないと伝えれば、陽彩は困ったように笑って「貴方が食べるのですよ」と言った。
「あ」
広いリビングに入ると、葵はちょうど冷蔵庫からオレンジジュースを取り出していた伊織と目が合った。伊織は葵を上から下まで見つめて、それからテレビに視線を移した。
テレビには、先日律が拉致されたアジトをHLの職員たちがテープで囲って調査をしている様子が映されていた。それから一般人の誰かがどこかから撮ったのであろう、葵と律の活躍の様子だったり、葵が律を抱えて瓦礫から出てきた動画がネットに載せられているらしい。テレビには『ネットの声は?』とテロップが貼られ、『またこの二人!最強!』だとか『二人の友情に感動する』だとか、馬鹿みたいなコメントが表示された。
「先輩」
伊織はあまり表情を変えなかった。これが彼の……友達である澄彦や、葵の同級生の和成や天音であれば、きっと顔を真っ青にしたり泣いたりしていたのだろう。
滑稽だな。本当に。肋骨は折れてるし、足の穴も腹の穴も塞がっていないし、額には縫合の黒い糸があるし、可愛いと世界に絶賛される顔にはガーゼや絆創膏が多く貼られていて、髪を結ぶ気力もなかった。もう何日もろくに眠れていなくて目の下には隈がくっきり残っていて、顔は病人のように青白い。コレが今の葵の姿だ。テレビに映ってるような勇ましくて凛々しい姿はどこにもなかった。
「先輩。大丈夫すか」
いつもはっちゃけているのに、今日は妙に優しくて真剣な声色で伊織はそう言った。

葵は。
葵には、

「うん」
葵には、大丈夫じゃないと言う選択肢はなかった。
大丈夫じゃなかったら、なんだって言うんだ。



*


「ゲホッ!!ゲホッ!!ガ、ヒュっ……!ゲホッ!お、ェエ"っ……!ぅ、ぐ」
「律、我慢しないで。全部吐いて」
「はーっ、はーっ……!オェ、え"ッ…!お、」
胃液の酸っぱい匂いと血の生臭い匂いが混ざりあって、病室には異臭がこもっていた。何も食べることができていない律は吐き出せるものがほとんど無くて、血で濡れている唇からは粘液性の唾液が糸が垂れている。呼吸する度にヒュー、ヒューと、肺が鳴っている。熱で頭も痛いのか律は呻きながら泣いていた。律が自分の手を握る葵の手を握り返すと、葵の手の骨がミシミシと鳴る。
仰向けになると血が詰まってしまうので必ず横向きに寝かせなければはらない。患者服も枕もシーツも真っ赤に染まり、一日で何枚消費されるのかも分からない。
「う"、はぁっ、はぁ"っ!か、ゲホッ!がアッ」
「律。律。吐かなきゃダメ。身体の中から全部出さないと治らない」
葵は律の涙と鼻血を拭き取りながらゆっくり背中をさすった。律と呼んでも律は返事をしない。ただひたすら嘔吐き、唸り、泣きながら葵の手を握り返すだけだった。そうして三十分ほど吐き続けた律はそのまま気を失って眠る。起きている間はずっとこのように吐いているか、覇気のない目でどこか遠くを見つめているのだ。
葵は一日中律のそばにいた。ずっと隣で手を握って、律が起きればぽつり、ぽつりとゆっくり話をしてやった。今日は雨だった。陽彩さんからゼリーをもらった。病室の花束はタミ子が花屋さんで自分で選んだものだ。また吉岡の叫び声が聞こえる。今日は晴れだ。律。あんまり話すことないよ。自分で見て何かを思うって難しい。
汗で額に張り付いた律の前髪を分けると、コンコンと病室の扉をノックされる。
「秋本です。葵さん、あの、そろそろシーツを……」
「うん」
柚と小松が入ってきた。もう何回か見ているだろうに、自分の師にあたる律が血を吐き衰弱している姿を見るたびに、柚は顔を歪ませてぎゅっと唇を噛み締めた。小松はなんでもないような顔をしてへらっとして喋るが、律の方を見ようとはあまりしない。律の血で汚れたシーツや衣服は柚と小松が洗っている。葵は自分ですると言ったが、どうせ自分たちはこれくらいしかできないのだからと二人が申し出たのだ。
「葵さん。休まないとダメですよ」
「うん」
「ご飯もちゃんと食べなきゃダメ、じゃないですか……葵さんは特に……」
「うん」
「食べてないのに、寝ないとか……倒れます。もう一週間以上ろくに寝てませんよ」
「そうだね」
「ちゃんと聞いてください!」
「聞いてる」
葵はなんだか、柚は吉岡に似てるなぁと思った。柚が「だから!」と声を張ると、小松が「まーまー。はやくお洗濯しちゃお」とのんびり言った。柚はまだ何か言いたそうにしていたが、言っても葵は聞かないとこの数ヶ月でよく知ったのでやめた。成績優秀で優等生で隊員の手本のような葵は、変なところで頑固だったし、その頑固さは律の横暴さよりも面倒くさくて強いものだった。
葵はそっと律を抱え上げて、律のベッドの横に設置されている自分のベッドの上に寝かせる。それから血で汚れた患者服を替えて綺麗なものにした。その間に柚と小松はテキパキとシーツと枕を回収し、新しいシーツを敷いて、汚れたものを抱えて病室を出ていった。また律を元のベッドに戻して葵は彼女の手を握る。
「りつ」


「律」






「律」



*


「どうしよう。あの人本当に倒れてしまうぞ」
「もぉ、怒るのか泣くのかどっちかにしてよー」
「お前は心配じゃないのか!」
バシャッ。桶の水はとっくに赤色に染まっていて、柚が勢いよく水面にシーツを叩きつけたせいで水しぶきが飛んだ。ボロボロと泣きながら血を濯ぐ柚を、小松は可愛いなぁと思いながら背中を撫でた。
「そりゃ心配だよ?でも言ったって聞かないじゃんか葵さん」
「だからどうにかして寝るだけでもしてもらわないとダメだろ」
「律さんが早く起きればいいじゃん」
「馬鹿なのかお前」
「もー!ひっどーい」
「おい、あまりふざけるなよ。一大事なんだから」
「僕はべつにふざけてないよ。ほら泣き止んで。ブサイクだよ」
「うるさいぞ!」
感受性が豊かなのは良いことね。小松は、自分はきっとあのまま律が死んでも涙一つ流さないし、自然に治るのならばなおさら深刻には考えられないだろうと自嘲する。残念だ、可哀想だとは思う。けど、思うだけだ。
これくらいしかできないのだから、と洗濯係を申し出たのは柚である。小松は柚がやるのならば必然的に自分もしなければいけないんだろうなー、手伝わされるんだろうなーと思ったから、ニッコリ笑って「僕もお手伝いします」なんて言ってみただけ。こんなの洗濯機に放り込めばいいのにと思ったが、それでは血が落ちないらしい。先にある程度お湯で濯いでから洗濯しないと染みになるとかなんとか。じゃあもう捨てたらいいんじゃないかしら?面倒くさいもの。
手がふやけてきた。毎日毎日何枚もシーツを変えなければならないくらい血を吐いているというのに、よく死なない。やはり一般人とは身体の造りが違うからだろうが。ああいうのを生き地獄と言うのではないかしら。アレからもう何日経った?二週間は過ぎた。もう二週間、律は毎日血を吐き続けてい熱に魘されている。葵は律が眠る病室に閉じこもっている。まともな精神状態ではないだろう。いっそ死んだ方がマシだろうよ。
「はやく楽にしてあげたいね」
「おう」
殺してやったらいかがだろうか。小松はその言葉を飲み込んで、きっとはやく治って欲しいと願っている柚に微笑んだ。
「葵さんは少しおかしいよね」
「なんだよ、急に」
「葵さんと律さんってちょっと変じゃない?お互いのことになるとあまりにも周りが見えない」
「バディなんだからそんなもんじゃないのか。しかもあの二人は生まれた時から一緒だって言ってたし」
「僕は君が律さんと同じ状態になったってちゃんと寝るしご飯も食べるよ。柚くんは?」
「……だって俺まで倒れたらダメだろ」
「ほらね」
「お前は冷めてるだけだろ」
「ひどい!心配だなぁって思うよ」
「心配だなぁ、でも死なないならいっかってタイプだろうが」
「柚くんってば僕のことよく分かってるね!さては僕のこと好きなんでしょう」
「ああいうのって共依存って言うのかな。執着と言うか。でも葵さんと律さんはタイプが違う気がする」
「普通に無視するじゃん」
あの二人の関係を表す言葉は『執着』がピッタリだ。何をさせても平均以上の葵と、なんでも要領良くこなす律は、それぞれでも非常に優秀な人材である。それなのに片方がいなくなった途端全てが崩れ落ちてしまい、ろくに使えなくなってしまうのだ。現にいつだって冷静な葵は律がいなければ食事も睡眠もとれず、一人で過激派のアジトに突っ込むなど無茶なことをした。律は与えられた責務を放棄してその他の人命より葵を優先するところがある。
違うタイプというのは、共に在る方法だ。葵は自分を犠牲にして共に死ぬことを選び、律は他者を犠牲にしても共に生きることを選ぶ。葵の方がずっと危険で、律の方がずっと残酷な依存の仕方だった。しかし葵の場合は律が死ぬ可能性があれば共に死ぬことであって、自分が死ぬ場合は一人で死ぬ。
そもそも、だ。そもそも、バディの変化は片方にも影響が出ることは誰でも共通である。小松も柚の不調を誰よりもはやく察知できるし、どちらかが怪我をすれば同じ箇所がじわじわと疼くような感覚がする。友情か愛か、それとも憎悪か執着か。べつになんだっていいが。お互いを想う気持ちが強ければ強いほど、バディの些細な変化も気付くことができる。葵があの日、誰よりもはやく律がいなくなったことに気づけたのはソレが理由である。
特に葵と律のように周りが見えなくなるほどお互いに執着している関係ならば、葵が律からバディとして直接心身に受ける影響がどれほど大きいか。葵の顔色の悪さから未熟な柚と小松でも少しは理解できた。
「おチビちゃんたち。口を動かしてないで手を動かしなさいよ」
ふと上から聞き慣れた声が降ってきた。二人が同時に見上げると、少し疲れたような顔をしている吉岡と、吉岡に抱っこしてもらいながらケロッとした顔でキャンディーを舐めているタミ子が立っていた。
「吉岡さんは何してるんですか?」
「まっ!僕が何もせずふらふらしてるとでも言いたいんですか?」
「暇なら手伝ってくださいよー」
「どこからどう見ても多忙でしょうが」
吉岡はわざとらしくため息をついて、タミ子を下に降ろしてから柚と小松の正面にしゃがんだ。それが不満だったのかタミ子は「んー、ぅー」と吉岡の服を引っ張ってまた抱っこをせがむ。
「タミ子、わがまま言わないでキャンディー舐めてなさい」
「にゃーし!!」
「にゃーしじゃないですよ。こんな一大事にお前はお菓子ばっか呑気に食べて」
タミ子はぷっくり頬を膨らませたが、しばらくするとキャンディーに夢中になって大人しく座った。吉岡はしゃがみ込んだものの、やはり見ているだけで手伝う気はないらしい。吉岡は眠らない生き物だがサイボーグではない。働きすぎると疲れるし、疲れていても葵と律の仕事の調整やら会議やら大人は忙しいのだ。
「律さんのアレ、いつ治るんですか?」
「そのうち治りますよ」
「そのうちって?あんなに血を吐いたら死んじゃうんじゃないんですか?普通の量じゃないですよ。本当に治るんですか?」
「治りますって」
面倒くさそうにそう言う。治ると言っておろ。この子供たちがそれ以上なんの返事を求めているのか吉岡にはさっぱり分からない。治るし、自然治癒しか方法がないのだから待つしかない。何度もそう伝えているのにどうして彼らは何度も何度も同じことを聞いてくるのだろうか。
「おチビちゃんたち。サーカディアンリズムという言葉をご存知か」
「知らないです」
「知らなーい」
「つまり体内時計です。夜になると自然に眠くなり、朝日を浴びると目が覚めるでしょう。一定の感覚で腹が空くのも、女性に月経がやってくるのもサーカディアンリズムと言えます。あらゆる生物に存在するものとはべつに、HEROにはHERO特有のサーカディアンリズムが存在します」
二人がシーツを洗う手を止めて話を聞こうとすると、吉岡は「続けながら聞きなさい」と注意した。
「HEROとして活動する上でバディを組むことは義務化されていますね。バディを組む目的は何か覚えてますか?」
「精神状態を安定させるため、ですよね?」
「そうです。HEROにとってバディといることはサーカディアンリズムを安定させる役割があります。君たちはまだ未熟ですから大して影響はありませんが、葵さんと律さんは極端に互いの影響力が大きいです。例え君たちが成長してずっと絆が深まろうが、あそこまで酷くはならないでしょうね」
酷く、というのは葵が律から片時も離れず睡眠も食事も取らないことだろうか。それとも互いに命を掛けているところだろうか。あるいは全てか。
「見ていて分かるでしょう。あの執着のしようは普通じゃありません」
「でも恋人が死んで後追いしようとする人の話はよく聞きますよ」
柚がそう言うと、吉岡は有り得ないとでも言いたげに目を見開いた。
「君はソレが普通だと思うんですか?」
「仕方の無いことだと思いますか?」
「たった一人のために、君は自分の全てを放棄できるんですか?全てですよ」
「その人以外は何もいらないなんて平気で言う人間の気が知れない」
「常人の思考とは思えない」
吉岡は眉間に皺を寄せて吐き捨てた。
柚と小松は吉岡のそんな厳しい顔を見たのは初めてで戸惑った。吉岡はとっくに成人しているが、他の大人のように子供に安心を与えるようなことはわざわざしない。吉岡はその辺の気遣いができない生き物である。
タミ子は舐めていると先程まで紫だったキャンディーが透明になったことに驚いたのか「ちゃあ!」とはしゃいで吉岡に見せた。吉岡は病室を見つめたまま「わぁすごい」と棒読みで言った。


*


吐き出せば自然に治ると言われていた通り、律は徐々に回復していった。しかし血を吐く回数は減っているが、まだ高熱は続いている。タミ子が選んだ花束はいつの間にか茶色くなっていると気付いたら、葵が知らないうちに新しいものになっていた。
20日経った頃には、葵はようやく食事をとるようになっていた。吉岡に無理やり薬を打ち込まれなくても夜は律の隣で眠り、朝は六時半に起きる。また大食い選手よりももぐもぐと食べて、暇があれば柚と小松に指導してやった。泣きながら洗濯をしていた子供たちは久しぶりに葵に指導してもらえて嬉しいのか、きゃっきゃとはしゃいで笑っていた。子供は元気に遊ぶのがよろしい。走り回るタミ子を好きなだけ遊ばせて、本来今月するべきだった任務を吉岡と確認して一緒に調節をした。目の下の隈は薄くなっていき、怪我もすっかり治っている。
「インフルエンザの酷い感じ」
あきらは「マいんじゃね」と言った。インフルエンザの酷い感じ。なるほど。じゃあ……なんだ。そんなに良くはないってことだろう。でも前よりかマシだってことだ。葵はもう五年ほどインフルエンザにかかっていないのでどんなものだったのか思い出せなかった。“先生”に直接育ててもらったあきらは診察もできてしまうらしい。
「お前の方はだいぶ顔色がよろしくなって。死にそうな顔のまま迎えてやったらいいのに」
「いいえ」
「迷惑かけられたんだからそのくらいバチは当たらないだろ」
「迷惑じゃないです」
「あっそ。……あぁ、あの護符の話だけど。管理を任されてた担当な、死んだから」
「……死んだ。死ぬような傷を与えた覚えはないですが」
その担当というのは数週間前にあきらが黒雪邸で言っていた、過激派に寝返った職員のことだ。あの日葵がアジトを破壊したときに、あの中にいた人間に致命傷を与えた記憶はない。しかし死んだと言う。
「死んだものは死んだ」
あきらは真顔でそう言った。
「どうやって死んだんですか」
「どうやって死んだんだろうな」
今度は笑う。
葵はそれ以上聞くとはしなかった。暗黙の了解というものだろう。組織内の人間が起こした不祥事は組織内で始末する。その担当がなぜ死んだのか、どうやって死んだのかはべつに知る必要などないということだ。死んだ事実で十分だろう。あきらは葵が律のために用意したプリンを冷蔵庫から勝手に三つほど取って部屋を出ていった。
葵はお湯で濡らしたタオルで律の身体を拭き、氷枕を替える。病人の看病のようにすればいいと言われた通り、葵はなるべく律が苦しまないように身体を清潔にして面倒を見た。
律はもうすぐ目を覚ます。葵は確信していた。正式にバディとなるずっと昔から、ずっとずっと、葵が生まれて、律が生まれて、互いに初めて目を合わせたあの瞬間から。葵は律の、律は葵の全てである。理解できないことはあっても分からないことなんてない。律はもうすぐ目を覚ます。そうしたら葵は、いつものようになんでもないような顔をして迎えなければならない。律がいなければ正常に機能しない自分のことなど、わざわざ律に見せなくたって彼女はよく知っていることだろう。
「ぅ、う"ェっ」
「……律」
突然嘔吐きだした律は口を抑えて身体をよじった。葵はすぐにガーグルベースを取ろうとしたが、そう言えば先程柚が粥を届けに来たついでにガーグルベースを洗いに行ったのを思い出した。しまった。替えを用意してもらっていない。
「う"、ゲェッ」
「あ」
葵は咄嗟に自分の手を器にして律が吐き出したものをその手で受け止めた。暖かくてドロりとしていて、酸っぱい臭いが鼻につく。さっき食べた粥はまだ消化されておらず、吐き出されたのは噛み砕かれた米と卵で、赤黒い血が混じっていた。吐きなれていない人間が嘔吐することは想像以上に体力を使う。律はゼェゼェと荒い呼吸を繰り返しながら、何度も何度も嘔吐いてボロボロと泣いていた。吐けなければ呼吸が苦しくなるだけだ。葵は吐瀉物を落とさないように足でゴミ箱を自分の方に引き寄せて捨てた。律にゴミ箱を持たせると、律は自分の吐瀉物の異臭でもっと気分が悪くなったのかまた吐き出す。葵は先程律の身体を拭いた布で手を拭い、背中を強くさすった。
「いっぱい吐いて」
吐いて。もっと吐いて。身体の中の悪いもの全部取り出そう。
葵が嘔吐を促すが律は首を振って嫌がった。葵は吐瀉物で汚れた律の口の中に指を突っ込んだ。律は一瞬目を見開いたが、高熱を出しているため指一本動かすことも億劫だ。ぼやける視界の中で、葵の掠れた低い声だけがよく聞こえた。

「吐いて」




「律」


葵の鼻からたらりと、生温かい血が流れた。