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乞う

雨ながら、散歩(兼ねて買い物)に言った。私の腰の周りは湿り気で急激に太るので、それを立ち上げる珍しい事態だった。外に一歩踏み出た瞬間に水臭い匂いがする。いや、おそらく水の匂いではない。ぬるい水そのものも香ってはいるのだが、ほとんどは水につられて連れ立った、街の一段と濃い匂い、日光の沈みこまないところの岩漿の匂いなんだろう。きっと街の平均築年数に比例してだんだんと渋く、味を増すものなんだろう。そういえばここは古都だった。するとこれは老年の熟れた匂いということになるんだろうか。違う新しい街でも今度意識してみようと思う。楽しみになった。

商業施設の集合した地帯からはわりと離れた住宅街に住んでいるので、閑静ではある。しかし地元に比べれば相当込み入っている。所狭しと並んだ電柱は雑然たるありさまで、その間に屋根が連なって、この陰湿とも読める重ね重ねの層は、もしや普段から雨天の相を成しているのか、と思う。剣山を透かしてみる生け花のように雨雲が映る。声を荒らげる。私の引き出しのかなり前のほうには生け花がある。あの子の副が華道部だったから。

しばらく歩いた。幼稚園帰りの幼稚園児と保育士さんとすれ違った。前を往く小さな傘、傘、傘に向かって「先生は17時に帰る先生だから17時に帰るんだよ」と言っていた。そんな秘密を言っていいんだろうか。鍵をバケットバッグから取り出そうと恥ずかしい体勢になっているおじさんとすれ違った。数日前の私をやっと俯瞰で見たが、これからも躊躇なく恥ずかしくなっていこうと思う。目的地が近くなった。大通りに出ると選挙演説をしているようだ。湿度が高いからか、地下鍾乳洞のような響き方でいろいろと響かない政策を訴えてくる。もっとおもしろい言葉を使ってほしい。お花も聞いているんだから。最初は傾けないつもりでも勝手に耳朶に触れるので、最終首まで向けて律儀に聞いてしまい、私はよく手を振られる。振り返そうとしてワンテンポ遅れる。無邪気ではあるのだが、体格がもうそれを許さなくなってきている。

本を安く手に入れようと思っていた。するとなんということか知らぬ間に店舗に改修工事があったらしく、中古本がごっそり無くなって、代わりにカードバトルのできる卓が設置され、全体的にもゲーム一色というふうになってしまっていた。あら、現代かしら。次の往訪でうちにあるカセット類を無差別に売り払ってしまおう、と些細な反発心がはたらく。学生の街、希わくは、私の近辺に中古本を扱う店が新設(?)されますように。結局本屋に行った。原価を四つ払った。差額のトリプルポップコーンアイスを水溜まりに落としておく。春らしくない。春はもっと上向きにあるべきで、あまり桜の散るのに言及したくはないが、それとアイスとは梅雨への移ろいを予感させる針路だ。アイスクリームをアイスクリームのまま空へ運ぶ。

ついでにキッチンペーパーを購入して帰路についた。どうやっても太腿にかすり続ける。触れるたびに意識が吸われる。雨粒も折り畳み傘に当たっているのに二面楚歌で騒々しい。雨に明るい母子を追い抜いた。男の子が家で待っている妹か、同級生か、誰かの名前を口にして気にかけていた。心配していると伝えると互いにやや勘繰りが含まれてしまう私たちのそれとは違って、彼の心配を直接取れてしまう。深入りしない心配は複雑な生き物には誠実ではないようにも思えるが、薄くさらって長く想うくらいがちょうど吉なのかもしれない。

夕飯のイメージが完全に完璧に完了して、鍵を差し抜きして、ようやっと愛しのベッドに辿り着いた。最高の一日が始まろうとする。

(ひたすらに雨を乞うお爺さんは、本日も慣らされてずいぶん形の良い結跏趺坐を組み、手をこすり合わせ、涙の浮かびそうな眼力で空に祈っております。そんな彼には、このたび甘雨が集中砲火いたしました。こつこつと積んできた祈りが期待を大いに上回って有り余る場面は、涙腺を突きます。雨に垂れ下がった長い髪に隠れた、苦くもほころびの表情は推察するに留めておきます。)

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