見出し画像

半音上がる

鼓動が身体に響く。バクバク鳴ってる僕の心臓には、気持ちがはやるのを必死に抑える健気な小人と、そんな自分を驚くほど冷静に眺める可愛げのない小人が存在していた。両者は勢力均衡状態にあり、一触即発の危うさを孕みながら、つかの間の凪を描き出していた。

本番中に限って余計なことが思い浮かぶものである。オーケストラの全員に「今考えていること」が吹き出しとなって表示される装置を取り付けたなら、数百年前にこの大曲を書き上げてくれた巨匠が目を疑いたくなるような、下手したら嘘だと思いたくなるような、そんなセリフでホールは埋め尽くされるんだろうな、と思う。

ちなみに僕の場合は、こう。

「ついてくるでしょ?」

きっとこのセリフの横には、彼女の顔がセット表示されちゃうんだろうな。死ぬほど恥ずかしいし悔しいけれど。

恋愛する感じと音楽する感じってちょっと似ている。ほら今吹いている部分なんか特にそう。彼女は意地悪だけどお茶目な笑みを浮かべて、こっちを挑発するかのようにウインクした。世界は一瞬にして転調する。全ての音が半音だけうわずって聴こえ始めたんだ。ボルテージは急上昇。これ以上テンポが狂わないように、「1・2・3・4」。足のつま先でビートを刻んで、自我を保とうとする。彼女の言いなりになんかならない。そのはずだったのに、彼女のビートにいつの間にか乗せられている自分に気づく。
……だめだめ、冷静に。

音楽はn次創作だ。作曲者、指揮者、これまでにこの曲を演奏してきたたくさんの音楽家たち。由緒正しき作品を、こんな間抜けなことを考えながら吹いていては、共同創作者たちに対してなんだか申し訳ない。だけどこんなことを考えてしまう原因は、きっと僕だけにあるわけではないんだっていう言い訳をしてみる。ありし日の作曲者の亡霊が、この空間に憑きまとっているとでも言ってみようか。

ff<fff。sub.p。ぐあっと盛り上がったのも束の間、もう一押しのところで引いていく波。昇り切ってしまいたい。「でもね。」これでいいの、不安でたまらない。もどかしいんだよ、チャイコフスキー。亡霊は僕に憑依して、その人生が封じ込められた古ぼけたフィルムを、僕の脳みそをスクリーンに見立てて上映してくる。もちろんそれは僕のだから、彼がかつて恋した相手は、ちゃっかり僕の初恋相手にすり替わってしまっているわけなのだけれど。

僕がこの曲をうまく演奏してやって、それが彼女に届いたら、彼の亡霊は現世から解き放たれるのだろうか。君は十分苦しんだよ。繊細で壊れそうな心を掬い上げる柔らかい絹で音を包み込み、最後の「ダダダダン」を吹き込む。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?