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分かってくれる人がいるということ

遅すぎるのは承知の上で、魔女の宅急便を見た。
今まで少し見たことはあったものの、最後まで見たことがなくいまいちストーリーが分からずにいた。トトロも同じ。そういう映画、ちょくちょくある。

どこか今の私と同じ状況にいるキキに共感を抱きながら、見入ってしまった。
自分の故郷、慣れ親しんだ場所を離れて、一人で暮らして見る。場所探しも、人間関係作りも、全て一からというのは相当しんどいものだ。かなり労力がいる。

何が一番しんどいパートなのかというと、誰も自分をわかってくれないところ。自分の良さ、性格を知ってくれている人がいないというのは、かなり心が折れる。
少し話でもしてみれば、分かり合えるんだろうけど、それまでに時間がかかったりもする。他人と言うのは、結構冷たく感じるものだ。人間はそこで、頑張って分かってもらおう、よりも、いいよ、分かってくれなくても。そそっぽを向いてしまう生き物だと思う。

そんなキキが、おそのさんと出会って、少しずつ人間関係が構築されていく姿。最初は素直になれないけれど、徐々にトンボの良さを理解していく姿。

その時思ったのが、見ず知らずの相手を全面的に肯定してくれる人の存在と、器の大きさ。それは、いいね、面白そう!という好奇心からくるものかもしれない。けどその存在にどれだけ助けられるかということだ。

私に置き換えると、今回の職場だって出会った人が当たりだった。その人と初めて話したときに、この人に分かってもらえてる気がする。と、そう感じただけでもその日の私は幸福感に満ちていた。これは生きる上でかなり重要なところで、承認欲求に繋がるだろう。それが発展しすぎたところがソーシャルメディアかな。

お金のためというよりも、そのために仕事があるんじゃないかな、というかそのために仕事を選んでいきたいなと思う。そしてさらに、個人的友好関係があるんじゃないのかなぁ。

ここで私が振り返ったのは、私自身はこの認めてあげる側の役割になったことはあるかな?というところ。思い返せば1回だけ、自信を持ってあれはそうだなと思う時がある。日本に来ていた留学生と一緒に働いていた時だ。

日本にレジュメを落とす文化はない。そんな中で、私が学生時代に働いていた時にレジュメを配ってきた、現在の私の大切な友達の一人。見た瞬間に、
「店長、絶対あの人雇った方いい!」とバイトの身ながら主張した覚えがある。当時の彼は日本語を習い始めたばかりで、皿洗いならできます!と仕事を探していたため、苦労したと思う。採用されてからは、まるで自分のことのように喜び、とりあえず話しかけまくる厄介なタイプの私。好奇心としか言い訳のしようがない。

ただ後になって、彼が「ここで働いているおかげで私の日本語はたくさん上達しました。そしてここの人たちが大好きです、本当に楽しい」と言ってくれていたことを思い出す。

誰かを認めるのはとても大変なことだけど、そんなに疑う必要ってないかなと思う。今の私は全て今まで関わってきてくれた人たちの優しさ、思いやりでできている。

そして今そんな本を読んでいる。

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