闘争するアメリカ人──G・ガーウィグ『バービー』を観る
ハリウッド映画『バービー』を観たので、感想を書いておく。ネタバレがあるので、嫌な人は避けてほしい。以下あらすじ。
◆あらかじめ「名作」である作品
本作は、日本では興行的に不振だったにも関わらず、SNSやネットメディアを中心にかなりの盛り上がりを見せている。しかも、その評価はかなり多様だ。「フェミニズム映画である(から素晴らしい)」。「単純なフェミニズム映画ではない(から素晴らしい)」。「むしろ反フェミニズム映画である(から素晴らしい)」。相互に矛盾する称賛が、同じ作品に同時に寄せられている。いったい、なぜそうなったのか。
その原因は、この映画が、日本においてあらかじめ名作であると決定されて輸入されたことにある。『バービー』が日本で公開されたのは8月11日。米国での公開から2週間以上遅れてのことだった。そしてこの2週間に、本作はすでに700億円以上の興行収入を稼ぎ出していた。単に人気があるだけではない。『バービー』は「女性による女性のための女性映画(女性監督・女性向け・女性主演)」として史上最大のヒット作であると共に、作家性の高い「オリジナル実写映画」としても、久々の大ヒット作だった。このまま今年の興行成績1位になれば、続編でもアメコミ原作でもアニメでもない作品としては、『アバター』以来13年振りの快挙となる。映画全体でそうなのだから、女性映画としては完全に〝記念碑〟だ。もし2020年代のハリウッド映画の歴史が編まれれば、そこに『バービー』が掲載されるのは間違いない。
つまり、この映画は日本で公開された時点で、内容の出来を問わず、社会性・芸術性・大衆性すべての面から承認を受けた「名作」であることが決まっていた。よって評論も「良い作品かどうか」を検討するのでなく「なぜ名作なのか」を説明するものが主流となった。しかも、社会批評性が強いことは前評判で伝わっていたから、評論家たちの多くはその批評性の矛先、「この映画は現実のどこを批判しているのか」を自分に都合良く説明することに熱中するしかなかったのだ。
◆社会派映画と「手触り」
批判の矛先が(劇中で度々登場する)男社会──原語では家父長制──に向けば、本作は「フェミニズム映画である」。同じように、フェミニズムに向けばそれは「反フェミニズム映画である」。両方を批判していれば「単なるフェミニズム映画ではない」ため、深い社会性を帯びていることになる。
実際、『バービー』は社会派映画と呼べる外見を備えていた。女性優位のユートピアであるバービーランドと現実のアメリカ西海岸を往復した主人公・バービーは、いずれの社会に対しても違和感を覚えることになる。彼女は、現実の家父長制的アメリカに反発しながらも、バービーランドにおいては自分が現実における男性の立場に立っているからだ。そんな絶妙な立ち位置から見える風景を描くことで、本作は保守とリベラルを同時に風刺している。映画全体をそういう風にまとめることもできる。
しかし、このようにワンフレーズで言語化できる表面的な批評性だけを取り上げて映画の説明とするのはむなしいことだ。上のような政治的なメッセージが見たいだけなら、それが劇映画である必要はない。SNSのタイムラインで十分だ。そこでは今言ったような前提──右にも左にも慎重なシニカルな態度──のもとに、煮え切らない政治的冗談が繰り広げられている。政治的な正しさだけを求めるなら、わざわざ映画館に行くことはない。
私たちは、わざわざスマホの電源を切り、高い料金を払って観る「社会派映画」に何を求めているのか。それは端的に言えば「人間ドラマ」であり、そこから派生する感動と手触りだ。劇映画で描かれているメッセージを140文字に要約するのがむなしいのは、そこに肝心の手触りが欠落しているからに他ならない。必要なことは、少なくとも1時間半以上をかけて登場人物たちの葛藤に付き合い、そのジレンマを共に生きることであり、劇映画としての『バービー』にとって重要なのは、それが誰を批判しているかではなく、シニカルな世界の中で、主人公であるバービーがどのような葛藤を生き、それが私たちにどのような手触りを与えたのか、だ。
◆アイデンティティと無関係な選択
では、主人公である「定番バービー」が生きた葛藤とは何か。彼女にはもともと、二つのアイデンティティがあった。一つは現実社会において自分が女性たちの救世主(=フェミニスト)であること、もう一つはバービーランドにおいて社会の中心に立つエリートであることだ。バービーは映画中盤までに、この二つのアイデンティティを両方とも失う。現実のアメリカでセクハラを受け、しかも意識の高い少女からは保守的な「ファシスト」呼ばわりを受けることで前者を、現実から家父長制を持ち帰ったケンたちが他のバービーたちを洗脳したことで後者が失われる。心のよすがを完全に失ったバービーは、戦意を倒れ伏してしまう。
だが、現実から同行してきた女性・グロリアの「(現実=家父長制のもとでの)女性の苦しみ」に関する告白を聴いたことで、バービーたちの状況は一転する。フェミニズムに〝覚醒〟した彼女たちは、家父長制を築こうとするケンたちに対抗するため一致団結して闘うことになる。ここでバービーは、「反家父長制」を旗印にフェミニストとしてのアイデンティティを取り戻している。そしてケンの野望を粉砕したバービーは、同時にケンと和解し、世界のエリートにも復帰する。主人公のアイデンティティの回復をめぐる物語は、ここで一度完結しているのだ。しかし……。
物語はまだ終わらない。バービーはなぜか現実に行くことを望み、自分たちの創造主であるデザイナーのルース・ハンドラーからも後押しされて、現実世界に渡る。さらに、バービーが婦人科を訪れる(=人間の身体を手に入れる)ラストシーンも描かれる。だが、なぜそうしたのは曖昧なままだ。しかもこれは、失ったアイデンティティとは無関係な選択のように見える。
◆バービーはなぜ人間になったのか
バービーは、なぜ人間になることを選んだのだろうか。世間に溢れるレビューではこの点に様々な回答が出されているが、納得のゆくものは少ない。たとえば、終盤の展開を聖書のアダムとイブのモチーフとして読み取ることは答えになっていない。「キリスト教の神話を再現している(から支持されている)」という読解は、前出の政治なメッセージの要約に似た大味な文化論で、私たちの根本的な手触りを説明することはできない。
選択のきっかけとして、映画の各所に挟まれる、バービーが「おばあさん」の美しさに触れる場面を挙げることもできる。老いることの美しさに憧れたからこそ、自らも変化する人間になった、というわけだ。これは誤読ではないだろうが、大半の描写と無関係に主人公の感情を説明してしまっている。問題は更に一段下、バービーがなぜ変化する人間に憧れたのか、それが映画の他の部分とどう関係しているのか、というところにあるはずだ。
◆バービーランドの息苦しさ
ここで、問いに答えるために、いったん視点を変えて、バービーが選ばなかった選択肢──バービーランドに残ること──に注目してみよう。そもそも、バービーランドは冒頭の異変やケンたちの反乱によっても変化したし、これからも少しづつ変わっていくことが示唆されている。変化を望むだけなら、人形のままでも十分に可能なのだ。つまり、バービーの葛藤は「変化する/しない」ではなく、「どのような環境で変化していくか」にある。
では、変化し始めたバービーランドの環境は、なぜ彼女にふさわしくなかったのか。バービーは映画中盤、一つのジレンマに苦しんでいた。それは、現実社会においては家父長制(男性優位)を拒絶しているのに、バービーランドにおいては女性の優位が崩れることを拒否する自らの情けなさに対する苦しみだ。都合の良い時だけ社会の変革を訴え、都合が悪くなると変化を拒絶する。自分はなんと浅ましく、醜い生き物なのだろう──。たとえ不利な状況でも、自分に正義があると思えれば、人間は戦い続けることができる。しかし、自分の正義が利己的な欲望によって左右される無内容なものと思い知らされた時、戦う意志を保ち続けることはできない。
このジレンマは、ケンたちとの「和解」を経ても解決しなかった。やがて権利を獲得して社会で活躍するとされるケンたちの隣には、そのようなことを数十年言い続けた後に生まれた、男しかいないマテル社の経営陣が存在する。「90年代には一人女性理事がいた」というCEOのセリフは、「和解」はまやかしで、支配者にとって都合の良いものでしかないことを示唆している。和解の決定権は常に支配者の側にあり、バービーはケンと恋に落ちるハッピーエンドを拒否することができるが、ケンにはできない。バービーランドに生き続ける限り、彼女はこの自分の欺瞞性と向き合い続けなければならない。彼女が拒絶したのはこの息苦しさだ。
◆闘争による逃走
バービーがこの閉塞感から解放されたのは、ケンの不当な支配に立ち向かっている間──抑圧される側としてジレンマに向き合わずに済んだ間──だけだった。そして実は、グロリアの告白への感動、現実のおばあさんに対する憧れも、この解放と同じ感性に基づいている。グロリアもおばあさんも、抑圧された世界の中で懸命に生きてきた。バービーは女性や人間のありのままの姿に感動したのではない。抑圧の中でも諦めずに人生を全うしようとする、その「闘う姿勢」に憧れたのだ。だからこそ、彼女は現実世界に向かうしかなくなった。バービーランドでこれから抑圧に立ち向かっていくのは、ケンであってバービーではないからだ。張りぼてのフェミニズムによって生み出されたこのフィクション世界で、マイノリティを適度に抑圧しながら生きていく未来に、もはや彼女は耐えられなかったのだ。
自分にとって都合の良い社会より、老いと死と抑圧の待ち受ける厳しいフロンティアを選択するバービーは、一見、老いや変化を受け入れて〝成熟〟した人間のようにも見える。しかし実際のところ、彼女は老いを受け入れることで成熟を回避している。醜いマジョリティであることから逃げてマイノリティになれば、抑圧されながら社会と闘うクールな存在になることができるからだ。
『バービー』は、リベラルの多い海岸部のみならず、保守派が多数を占める南部でも熱狂的に受け入れられているという。いまの米国では、右派は自分が都市部エリートやリベラル・ファシズムの抑圧に抵抗しているつもりで行動し、左派は自分が家父長制やファシズムと闘っていると考えていて、誰も〝抑圧する側〟の責任を果たそうとはしない。闘争することによって成熟から逃走する現代のアメリカ人たちは、自らが苦しむジレンマをバービーと共に歩み、バービーと同じ場所に向かって並走し、全く異なる政治的立場へと逃走していく。そして、この逃走こそ、いまのアメリカが共有できる唯一のものなのだ。
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