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空気

Agenda 1.

昨日から人に傷付けられることについて考えている。

どんな小さな傷でも、他人から付けられたものは嫌だったときちんと伝える必要がある。自分が勝手に傷ついただけじゃん!我慢すれば平気!ではない。自分のことを守るためが第一だけど、第二に、周りの人を守るためでもある。傷付けた加害者をほっといたら、同じような目に遭う人がもっと増えてしまうため。

周りから「そんな些細なことで?」と言われたとしても、自分が嫌だったということは流さない。周りがそんなことを言う資格はないため。その些細なことが、自分には、自分のコミュニティには、重要だったりする。

ありえない下品なジョークを言ってきた友達がいた。そしてそれが嫌だ、何回もやったら制裁を加えると伝えたら、そんな大げさな…と言われた。(詳細は書けないけど、大体こんな感じ。)
言った張本人が言うなよとしか思えなかった。そういうくだらない、加害性の高い冗談を思いついたとしても、「伝えると決断する」「私と面と向かう」「口に出す」「文字に書き起こす」「送信する」など、数々のステップを踏まなければいけないのだ。それを乗り越えてまで伝えて良い冗談だとあなたは判断したんだよね。

逆に、自分が傷付かないように気をつけてくれる人は、私も大切にしたいと思う。

そして、自分自身も誰かを傷付けないようにしなければならない。そのために必要なものは想像力。それは経験でしか培えないものだと感じている。そのために、本を読んだり、映画を見たり、人と話したり、いろんな人と交流したり、いろんな場所に行っている、みたいな側面がある。

もう一つ必要なものは、空気を読む力。これは特段下手で、空気を読めてはいるけど、読めているように振る舞うことが特段苦手。というかできない。


Agenda 2.

空気を読むって何だろう。

と考えたときに、ただ読むだけではなくて、「空気を読んでいますよ」とアピールし、そのような態度を取るところまでが、空気を読むと言うことなんだろうと思う。

何故か、察することはまあまあできるのだが、その後の行動がどうすればいいかわからなくなってしまう。話の文脈として絶対わかるはずのことも、「え、これって○○ってことだよね?」と言語化しないと確信を得られない。大学受験のとき、現代文がすこぶる苦手だったのは、たぶんこれのせい。

確信が得られないのって、何でだろう。

きちんと明文化してくれないとわからないのって、本当に不便で、なんとなく分かっていることでも何かと相手に言語化させようとしちゃう。会社の営業とかでも、取引先がわざと濁して話しているのにぶったぎって質問しちゃったりとか。友達があえて濁して発言しているのに、意味を確認してしまったり。最近はもうめんどくさくて、というか察しの悪い人になるのが辛くて、わかったふりをしているけど、実は半分以上はわかっていない。仕事ではダメなので仕方なくぶったぎって白黒つけているけど。友達とか、大好きで信用している人は白黒言っているけど、そうでもないただの付き合いで話している人はもうどうでも良くなって適当に流している。

とか言っている割に、すぐ人に期待しちゃったりもする。

人に過度な期待をかけてしまうのって、確信が得られないからかもしれないね。もしかしたらこれしてくれるかも(してくれない)、こう言ってくれるかも(言ってくれない)って。逆に、確信が得られる人には変に期待しないでいられるかも。この人は絶対これをしてくれるから大丈夫だ、ってなれるので。

人との関係って絶対がないから難しい。全部確信の持てる人間関係は面白くないんだろう。でも、できるだけ確信の領域を増やして、不安である状態を作らないためには、感情の言語化行為は必須なんだろうと思う。少なくとも私の場合は。

話戻るけど、私は空気を読んでますよ、ってアピールするの、難しすぎる。


何か疲れてきたので本日はここまで。
それでは。

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