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日本史上最恐の怨霊は誰だ!?選手権

他ブログからの過去記事転載です。
少しずつ、noteにお引越し中です。

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怨霊と聞いて、多くの人が真っ先に思い出すのはやはり平将門でしょう。


⚫️平将門


関東の豪族だった平将門は朝廷に対して反乱を起こし、関東に自らが天皇として君臨する国を打ち立てようと目論んだ、とされています。これが、いわゆる平将門の乱。その反乱は制圧され、将門は晒し首にされる。

但し、将門やこの乱については、いろいろな説があるようで、一概に将門を分不相応の野心を抱いて自滅した反乱者、と見るのは不適当だ、という歴史番組を見た事があります。
どうやら将門は、親分肌で頼られると断れない性格だったみたいで、いろいろと誤解されたり嵌められたり、という経緯があったようです。
この辺りの時代については勉強不足なので、説明はこの辺にしときます。

晒し首の続き。

しかし、何日たってもその首は腐る様子もなく、夜な夜な「私の五体は何処だ!ここに来い!首をつないでもう一戦まみえようぞ!」的な事を叫ぶので、近隣の村人は恐怖に怯えていたという。

いや、将門様、お気持ちはわかりますが・・・
どうどう、落ち着いて、落ち着いて。ご近所迷惑ですよ。
騒音トラブルはダメです。夜はお静かに。


そして、かの有名なエピソード。 

自らのホームタウンである関東目指して空を翔る将門の首!

恐すぎます。

将門様、少しは手加減して下され。 


将門の祟り

関東大震災後、将門の首塚を取り壊して土地を整理しようとした所、当時の大蔵大臣始め関係者が何人もたて続けに死亡。首塚は元に戻される。

戦後、GHQが首塚を取り壊して駐車場にしようとした所、ブルドーザーが横転し運転手が死亡。日本側が将門の祟りだとGHQを説得し、首塚を取り壊す計画は白紙に。
GHQも動かしたというのが凄いですね。

将門の祟りとされているものは他にもあるそうです。



将門様の一番の怨霊ライバルと言えば、私の中では崇徳上皇です。



⚫️崇徳上皇


崇徳上皇は鳥羽法皇の息子、という建前ですが、本当の父親は鳥羽法皇の祖父、崇徳上皇から見れば曾祖父にあたる白河法皇だという噂が当時公然の秘密として囁かれていたようで、そのため崇徳上皇は鳥羽法皇から疎まれていました。

この辺りの流れは、大河ドラマ「平清盛」を観た方はご存知だと思います。

「平清盛」では、崇徳上皇(井浦新)を鳥羽法皇(三上博史)が「伯父子」と呼んで苛め倒してました。
「平清盛」は視聴率が悪く作品の評価も酷かったですが、私はよく出来てると思って面白く観ていました。特に、登場人物の心の動きが丹念に、しかも「江」みたいなご都合主義も無く描かれていて、話の展開に嘘臭さが無く説得力がありました。

嫉妬と裏切りにまみれた、ドロドロした天皇家の権力争い。その中で、誰か一人に「コイツが悪い」と悪役を押しつけるのではなく、どの登場人物にもその人なりの生き方や論理、一人の人間としての苦悩や欲望があって、紋切り型の描き方にはなっていませんでした。

例えば、崇徳上皇と鳥羽法皇の確執でも、苛める鳥羽法皇の側にもやむにやまれぬ思い(愛する妻と祖父が通じていた、というだけでも衝撃だったろうに、その上密通の末出来た子供を我が子としなければならなかった屈辱、しかもその祖父が権力を握り続け、自分は軽んじられ続けた、など)があったりして、一方的に悪者として断罪していない所が良かったと思います。



崇徳天皇の話、続き

白河法皇が崩御すると、後ろ楯の無くなった崇徳天皇は更に追い込まれ、鳥羽法皇の苛めは更にエスカレート。結局、鳥羽法皇に騙される形で、崇徳天皇は現代で言うところの窓際族のような立場に置かれてしまいます。

鳥羽法皇が崩御してからも、その子、崇徳上皇から見れば腹違いの弟にあたる後白河天皇(「平清盛」では松田翔太)との対立が続き、鳥羽、後白河体制下で冷遇された者たちが同じ恨みを持つ崇徳上皇に近寄ってきます。

そして、保元の乱が起こります。

源氏、平氏、公家衆などが、それぞれ崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれて争った末、頼朝・義経の父、源義朝や平清盛がついた後白河派が勝利。崇徳上皇は讃岐に流罪となります。

ここからがキツい。

崇徳上皇は讃岐の地で、憑き物が落ちたように穏やかな心を取り戻したと言われています。そして自らの血で写経し「せめてこのお経だけでも都に置いて下さい」という低姿勢な手紙を後白河天皇に送ります。
ところが、この写経した紙は非情にも送り返されてきます。しかもビリビリに破かれた状態で。

憤怒した崇徳上皇は天皇家を呪う言葉を吐き、数日後に憤死します。

この呪いのシーン、「平清盛」では「まるでホラー」と言われるほど凄まじい描写でした。いやあ、怖かったぁ。
「やり過ぎ」という評が多かったみたいですが、私はアリだと思いました。

確かに、これが現代劇だったら荒唐無稽だったかもしれません。現代人にとって呪いなんていうのは、ホラー映画やその手のドラマ、小説などフィクションの世界の事として、娯楽として楽しむ範疇ですから。せいぜい、そうした映画やドラマを観て「怖くて眠れなくなっちゃった~」という程度です。

でも、昔の人々にとっては、己の生死に直接関わる脅威だったと思います。私達とは捉え方が全く違って、身に迫るリアルな恐怖だったはず。その時代の人の頭の中では「平清盛」のあの場面はまさしく現実そのものだったと思います。


崇徳上皇の死後、後白河天皇の身辺で不審な死が続き、更に火事などの災害まで起こるようになると、これは崇徳上皇の祟りではないかという噂が都で囁かれるようになります。
祟りを怖れた後白河天皇は、ようやく崇徳上皇を手厚く祀ります。
が、その後も祟りと思われる災いが続き、その災いは崇徳上皇の死からほぼ100年毎に起こる事になります。


この記事を書くにあたり、参考にさせていただいたブログがこちらです。
要するに受け売りです💦


古来日本には、たとえ怨霊であっても、手厚く正しく祀れば護り神になってくれる、という考え方があるそうで、それも、強い怨霊であればあるほど、力の強い護り神になって人々を守ってくれるそうです。

そうした信仰に基づいて、明治天皇は、即位の前日という慌ただしい時期に、御自ら崇徳上皇の魂を迎えに四国に出向かれた、というのを、数年前TVの歴史番組で見ました。天皇家を呪いながら亡くなった崇徳上皇の霊を鎮めたい、そして、新たに日本の首都になる東京の護り神として、崇徳上皇の力をお借りしたい、という思いからのようです。
天皇家の醜い争いから生まれた呪いが、万が一にも我が国民に災いをもたらすような事があってはならない、もしかしたらそういう思いもおありになったかもしれません。
明治天皇の心中を勝手に想像して語るなんておこがましい、畏れ多い事ではありますが、ここは見逃して下さい。


現代に生きている私達には、東京が首都というのは当たり前すぎる事ですが、それは日本の長い歴史から見るとほんの最近の事で、何千年もの間日本の中心は関西だったわけです。
江戸時代の三百年近く政(まつりごと)の中枢だったとはいえ、関東は未開で野蛮な土地、という認識が京の人々、特に朝廷や天皇家にはまだ根強くあったであろうその頃に、その未開の地・東京にお移りになる明治天皇の心中はいかばかりか。不安と、国民に対する責任とで、夜も眠れないほど悩まれたのではないかと推察します。




ちなみに、東京の護り神は崇徳上皇の前に既にいたらしいです。正確に言えば、江戸の護り神という事になりますが。


徳川家の歴代の将軍の多くが、東京を囲むように東京の中心に向かって葬られているというのを、これもTVの歴史番組で観ました。死後も江戸の民と町を護るためだという事です。

東京はずっと崇徳上皇と徳川歴代将軍(もしかしたら平将門も?)によって護られている土地なんですね。地方に暮らす私には羨ましい限りです。

「そんな強力な護り神が何人もいるのに、東京大空襲や関東大震災で多くの国民が犠牲になったのは何故だ?」というのはこの際無しで。
護り神が居なければ、もっと多くの犠牲を出していたかもしれない、という考え方も出来ます。
要は、心の持ちよう。イワシの頭も信心から。


日本各地に、◯◯の戦場跡などの碑がありますよね。
ここで、昔戦があってたくさんの人が亡くなったんだ、それぞれが様々な怨みや無念を抱えたまま亡くなったんだ、と考えるとちょっと怖いです。
でも、「だからここは穢れた土地だ、ここに住むのは縁起が悪い」と捉えるのか、
それとも、「慰霊碑を建ててきちんと祀ってるのだから、その魂は鎮められてるはずだ、そして今は護り神となってこの土地を護って下さってるんだ」と感謝の気持ちを持つか、
考え方次第だと思います。


私の中では、日本史上最恐の怨霊ツートップはこのお二方なんですが、一般には菅原道真を含めて三大怨霊と呼ばれているそうですね。

私から見ると、菅原道真は今一つおどろおどろしさで将門、崇徳上皇に水を開けられている感じがします。
道真様の場合、自らを陥れた相手はほとんど不審な死を遂げていて、復讐は充分に果たした感があるからかもしれません。


でも、平将門、崇徳上皇の二人だけで選手権、というのも何だかショボいので、次回この二人の対抗馬を探してみます。

この二人に対抗できる怨霊、いるかな?



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