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【古事記】いつの時代も愛を残したい人間

Hello, ケイコです。
古事記を学び始めて早6年。アウトプットをしてこなかったので小学生なら卒業となる6年目にして、やっと何かカタチに残していこうと決めました。

学び始めて1年くらいの頃。乳飲子の娘と講師の加藤昌樹さん。
娘が床をハイハイしながらの学び合いで共存社会の縮図のようでした。

なぜ古事記はつくられたのか?

古事記を学び始めた頃に感じていた、”なぜ古事記を作ったのか”という点。

稗田阿礼(ヒエダ ノ アレ)が各地で耳にした話を、今でいう公民館のような民が集う場で語り伝えていたものを太 安万侶(オオノ ヤスマロ)が物語として残したもの、と記憶している。
この流れは、私たちが学びの場面でノートやメモを取ることと似ているのでは、と思っている。要は、後のために残したかった知識情報であるということだ。

私たちは誰のために残すのか

授業でノートを取るのはなぜか。会議でメモを取るのはなぜか。
それは得た知識情報を正しく残したいからだと思う。

では、なぜ正しく残したいのか。
人それぞれになってくるが、「テストで点を取るため」「仕事で確実性を保つため」等々だろう。

ここで深掘りを終わらず、もう一段階それぞれの根っこを見てみよう。
「テストで点を取る」ことで喜ぶのは誰だろう。「仕事で確実性を保ち理想を現実化」することで喜ぶのは誰だろう。

それは、自分であり、誰か他の人間。人しかいない。(自然界のこともあるとは思うがここでは人までで止めておく)もっと深掘りするのであれば、そこには『自己愛』『隣人愛』があるのだと思う。


私たちが何かを残すとき ———
一見ただのモノや情報だけのように見えるが、実は必ずそこに「愛」がある。しかも残している本人は、自覚がほとんどない。

古事記を読み物として、しかも壮大な小説作品のような物語として残した先人の気持ちは、まさに後世への「愛」だったのだと強く感じている。もちろん自分が生きた時代への愛や自分を知ってほしい承認欲求もあるだろう。その、現代と変わらない人間臭さが古事記には溢れていて、私が何よりも魅了される理由だ。


次回からは、毎月1回開催している「古事記の学び合い」からの復習を兼ねた、私なりの見解をご紹介していく予定です。




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